水鏡




青々とした葉を風に揺らす楓。

その木立越し、零嶺山を美しく仰ぎ見る位置に

ひっそりと佇む桧皮葺の古びた神社がある。

一面苔むした庭には一見不規則に石組が敷かれ、

いくつかのやはり苔むした石灯篭が

昼の日中、用を成さずにまどろむように佇んでいる。

その神社の石段を下り、なおも緩やかな傾斜を降りて行くと

そこには零嶺山からの清水が流れる小川に突き当たる。

その清らかなせせらぎに細く白い手を浸し

 今さっき畑で採れたばかりの野菜を無心に洗う瞳巳はこの神社の娘。

年老いたが、いまだに気だけは矍鑠としている神主の祖父との二人暮しで

祖父の世話と巫女の仕事を日課とする毎日を送っている。

洗い終えて綺麗になった野菜を籠に入れ、

それをよいしょと持ちあげると、背筋をピンと伸ばし前方に目をやる。

その彼女の目に思いがけなく映ったのは重そうなリュックを背負い

村からの一本道を懸命に登ってくる一人の若者だった。

この神社に用事のある村人が時折登って来る以外には

めったに人が通らないこの小道を

息を弾ませながら歩いてくるその見慣れぬ人物に

 瞳巳は妙な胸騒ぎを覚えながらも

 やがては一陣の風とともに往き過ぎるであろう旅人に向かい

一礼して軽やかな足取りで神社へと続く石段を登り、

裏門へと戻って行った。

あれからどれほど経っただろう。

西の窓から差しこむ陽射しで厨房が金色に染まる頃

「瞳巳や ちょっとこちらに来なさい。」

そう呼ぶ祖父の声に 夕食の仕度をする手を止め

大座敷へと向かう。

中央の襖をスッ―と開ければ祖父と向き合う位置に

さきほど見かけた青年が座っていて

こちらを見て軽く会釈をする。

「あなたはさっきの」と慌ててぺことお辞儀を返せば

祖父は少し驚いたような顔つきで二人を見比べた。

「なんじゃ瞳巳、もう顔見知りじゃったか。

まあよいわ。このお方はな、北上拓也さんといってな

ある大学で考古学を研究されている研究員の一人なのだが

どうやらこの辺りに貴重な文化遺産がある事がわかったので

調査にこられたそうじゃ。

今、大まかな話をざっと聞いたところじゃがな、

どうもこの神社の近辺にそれがありそうだと、

まあこういう話しになっての。」

とひととおりの流れを説明をする。

しげしげとその面持ちを眺めてみる。

目は口ほどにものを言うというがその真っ直ぐな眼は

そ持ち主の実直さをなにより物語っている。

視線を下ろせば端麗な造りの鼻や口。

まだわずかに幼さを残す頬からはとてもその種の人間が

漂わすような威厳や奢りは微塵も感じ取れない。

ただ朴訥とした人の良さそうな一人の青年が眼の前に座っているのだ。

「そこで瞳巳、急に頼んで悪いが明日、わしの代わりに

この方をこの神社の近辺に案内してやってくれんか」

わしは生憎と前々からの用事が入っているのでという。

「わたしがですか。」

あまりに唐突なその言葉に戸惑いを隠せずそうもらしたものの

「無理をお願いして申し訳けありません。」

と心底済まなそうに詫びいる拓也を目の前にして

はもうこれ以上言い逃れることは出来無いと思い

不本意ながら引き受けることにした。

その夜、拓也は本堂の一角でゆっくりと睡眠をとり

翌日、乳白色の空に 生まれたての朝日が昇り、

まだ少し肌寒いながらも 眩しい光の中、

鳥たちが清々しい鳴き声を響かせる頃には

拓也は石段下の小川で顔をざばざばと洗っていた。

そこへ手桶を持った瞳巳が降りてきて

朝早い客人に「昨晩はよく眠れましたか」と声をかけた。

「お陰さまでここ何日か分くらい溜まっていた疲れが

一気に取れるほどゆっくり眠ることが出来ました。

ここは心底心が洗われるようなすばらしい土地ですね。

なんとも云えないほどの神聖な空気に満ちている。」

と大きく息を吸い込みながら満足そうにそう言ってから

「そういえば瞳巳さんに早速お聞きしたいことが

あるんですが よろしいですか?」

と続けた。

「ええ、私に解かることなら何でもどうぞ」

と答えれば嬉しそうにその疑問を投げかける。

拓也が不思議に思ったのはここへ来る途中の

石段を降り切った脇で見つけた

小さな祠にある泉のことだった。

岩石の割れ目から染み出すその湧き水は

長い間に削られ すでに道となった窪みを通り、

その下に置かれている 大人がやっと一抱えできるほどの

大きさの石器に注がれる。

その石器の外側には日・月・星の3つの彫刻が施されていて

周りをぐるっとしめ縄で巻かれている。

そして不思議に思ったのはその石器の中に浮かべてある

色とりどりの小さな軽石についてだった。

「あれは何のために浮かべてあるのですか?」

とストレートにそう問う。

瞳巳は「ああ、あれ」と云ったきり何も答えず

代わりに「あなたのこと当ててみましょうか」と意味深に笑った。

一緒にその泉の傍まで来ると瞳巳はスッと右手を

水が滴る石器の上にかざし

何か小声で呟きながらゆっくりとその手を時計回りにまわした。

3回も廻りきらないうちに水面に僅かな水流が起き

直接触れてないはずの軽石が瞳巳の右手の回転に合わせて廻り始めた。

そして廻していた右手の動きをぱっと止め

一呼吸置いた後 ぎゅっとその手を握り締めると

いままで水流に乗って廻っていたそれが次の瞬間、

一気に思い思いの場所に散らばる。

それは不思議に自ら意思を持つかのように。

あっけにとられている拓也に瞳巳は静かにこういった。

「あなたは3人兄弟の末っ子で少々甘えん坊のようね。

優しい性格なので大体のことは人の意見をどこまでも尊重するけど

肝心な時にはどこまでも自分意思いを貫く固い信念の持ち主ね。

そう、ここに来る時もあなた、父親と喧嘩したって出てる。」

そういって拓也の顔を見ながら面白そうに微笑む瞳巳を

まるで狐でも見るようにしばし声も出ず眺める拓也だった。

たしかに自分と同じ弁護士の道に進んでもらいたいと願っていた父親とは

なかなか意見が合わず今回も出かける前に少々やりあった。

三人兄弟の末っ子というのも合っている。

「。。。」

すっかり驚嘆しきっている拓也に瞳巳は

「これは水占いといってこの軽石の行方で占うの。結構よく中るのよ」といった。

水占い…なんだそれは。そんなの初めて聞いた。

でもほんとによく中るものだな。

「見事なもんだね。」

とそう素直に感想をもらせば

「でしょ。でも残念なことにこれって未来のことは何も占えないのよ。

過去と現在がやっとだからあまり役には立たないかもね。」

といって無邪気に笑った。

そしてそろそろ朝食の支度をしないと、

と水を汲んだ手桶を両手に持ち階段を上がろうとする瞳巳の手から

「僕が持つよ」といってヒョイとそれを受け取り

共に神社へと戻っていった。。

 

朝食のあと、瞳巳は明後日この神社で行われる

葵祭りの仕度に追われていた。

毎年五月の新月の夜に豊作と無病息災を願って

行われる神事。

おもな行事は神主による祈願と今年の行方を占う水占い。

そして村人たちが何より楽しみにしているのは

瞳巳が心をこめて振舞う甘酒と

庭の一角に設えられた舞殿で披露される瞳巳による舞楽。

この時ばかりはいつも少々勝気な瞳巳が

誰の目にもこの世のものでない者

そう、まるで月からの使者のように映るのだ。

薄衣を身に纏い 淀みなく舞うその姿は

どこか儚げで それでいてどこまでも気高く

とうとうと流れるあの川のように

眩しいほど澄み切っていて。

 思わず誰もが知らず知らずのうちに

ため息を漏らす。

しかし当の本人に至っては全く自覚はなく

無心で舞っているためか

その時の記憶はいつも見事に欠如してるという。

ただ何か目に見えない強い力に導かれるように

雲の上でも歩いているように

その生命を浄化させて自己陶酔しているようだったと

振り返ってはそう思う。

ようやく納戸から必要なものを出し終え

ふと、部屋の棚に置かれた写真立てに目を移す。

3人寄り添い楽しそうに笑う写真。

その真ん中に移る勝気そうな目の少女は今の瞳巳の幼き姿。

その両脇で包み込むような微笑む2人の男女は

今は無き両親で。 

瞳巳の両親は彼女が3歳になった誕生日に

ある事件が原因となり帰らぬ人となった。

まだ物心がつく以前の出来事だったので詳しいことはわからないし

祖父に尋ねても上手くはぐらかされてしまう。

思い出したくないことを無理に思い出させるのは

やはり気が咎めるので最近ではその話題もあまり口にしなくなっていた。

さて、そろそろ予定の時間かな。

拓也を案内すると約束した時間になったので

部屋の戸を閉め、裏門から外へ出た。


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