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元祖カリスマ

古くからの知り合いGさんと、宗教の話でにわかにアツク盛り上がる。
互いに哲学好きなだけあり、白熱の30分間。

ことの発端は、わたしが「八幡様(鶴岡八幡宮)の徳川家康」とボケ間違いをしてしまったことから。
「歴史が嫌いだったからとは言え、いい加減に...」と言いたげな目を向けられただけで訂正すらされませんでしたが。
それから話は発展していき、「アメリカ行って、英語でshrineとtempleってある意識して初めて、寺と神社の違いを考えたよ。シントーとブッディズムは違うんだ、ってね」とわたし。


そこで、

Gさん:「ブッダの『悟り』だけど。弟子たちはなにが『悟り』か分からなかったはずじゃない?だってブッダにしか分かんないじゃん、いつ悟ったかとか、なにを悟ったかとか」

わたし:「だからー、書面に残ってるでしょ。『悟りのこころたるや』みたいなのが。それ見て分かるじゃん。弟子じゃなくても」

Gさん:「いや、だから、『悟り』って見えないものじゃない。それを、どうして『悟り』って分かったのか、ってこと。ブッダのこと信仰してないと弟子もいないでしょ」


わたし:「それ言ったらアレだよね。仏教から枝分かれしてったのって、まさにソレなんじゃないの。仏教から枝分かれした宗教って無数にあると思うけど、信仰を発展させて行って、残ったのものの原点が仏教であって。まあ、創価学会とかもさ。要するに、そのへんの宗教の原点になったっていうか。だから、『悟り』気づいた云々は、うやむやで、枝分かれしてって、ブッダ以外の者にとっては、ブッディズムの元祖的真髄を会得してたとは思えないっていうか」


Gさん:「むぅー・・・・・・。いや。だから、ブッダが『悟り』を会得した時点でね、弟子がどうしてブッダに信仰心を抱いてたか、ってことなんだけど」


                     (中略)

わたし:「要はブッダにそれだけカリスマ性があったってことだよ」


”カリスマ性”と一言で片づけられ、そして無駄に口の立つわたしに、「これ以上話しても無理だ」と言う顔をしてわたしを見るGさん。意外にも哲学のみならず歴史の鬼として知られる。
ちなみにわたしは、歴史はからっきしやる気なし人間だ。だって、それこそ、「ほんとにあったことか分かんないじゃん。誰が何百年も前に生きてた人のこと見たんだよ。なんでそんなあやふやなことが教科書に載ってるわけ」と思うので。

そして、話の矛先は、コウダクミに人気を取って代わられた感を否めない、かつてのカリスマ・浜崎あゆみに移った。
「言ってみりゃああいうのがまさに若者のカリスマだったよね。つーかどうなの、あれ。浜崎あゆみみたいに、一時期パンツの上にスカート履いてる女の子ばかりだったけれども。あれはどうよ」。
何年か前に代官山に行ったとき、ほとんどがそんなスタイルだった気がする。
代官山のみならない。鎌倉にもごちゃまんといた。『早見美術学院』の前のミスタードーナツで水を飲みつつ数えたら、10人はいました。

その前の冬は、同じ席にて「マフラーを後ろで結んでる子が何人いるか」数えてたな。