降りしきる雨。
裏路地のさらに奥、街の死角で、
一匹の猫を拾った。
鎖に両手をつながれ、全身に痣を持つ猫。
些細な気まぐれで、俺はその鎖を破壊し、開放した。
そして…自分の家へ連れかえった。
…「家」と呼ばれる場所へ。
「…おい、着いたぞ」
見つけたときから既に意識は無かった。
体に体温は感じられず、もしかしたら既に死んでいるのかもしれない。
とりあえず床に寝かせ、布団をかけてやり、暖かい飲み物を準備する。
と同時に、暖房が経や全体を徐々に暖めていく。
「…ぁ…」
微かに声が聞こえた。
布団のほうを見ると、猫は目を覚ましていた。
「起きられるか?」
声をかけると、布団を蹴り飛ばすや否や部屋の隅へ一気に走った。
そして、多分に誤解をはらんだ目でこちらを見る。
「…別に取って食うわけじゃねぇから大丈夫だって」
それでも猫は喋らない。
「ほら、ちょうどホットミルクが出来た。飲めよ」
出来立てのホットミルクを、布団の枕元へ置いた。
すると猫は恐る恐る近づき、コップを手に取り、飲み始めた。
「それを飲んだら布団に入って温まっておけよ。風呂の用意するから」
どうやら、猫は俺を味方だとわかってくれたようだ。
コクンとうなづき、一心不乱にホットミルクを飲み始めた。
どうやら、この猫は情緒面にかなり問題があるようだ。
風呂場に入れても何の物音も聞こえてこない。
少し心配になって覗いてみると、猫は何をしていいのか分からないらしく、
ぽかんと突っ立っていた。
仕方なく、俺が服を脱がせて体を洗い、湯船につからせてやった。
年は12〜13くらいか。
だけど、この猫には羞恥心がまったく無いらしい。
脱がせても、体を洗ってやっても何も反応が無い。
こちらとしては楽…でもないが…
どこかの世間知らずのお嬢様とも思えないし。
ただ、ほおっておくといつまでも湯船につかってそうなので、
結局、風呂からあげて服を着せるところまで
全部世話をしなくてはいけなかった。
突然の来訪者に着せる服なんて持っていなかった。
適当に自分の服を着せるが…サイズが合うはずも無い。
脱げないようにズボンにベルトをしてやるくらいしか処置方法が無かった。
「…名前くらいは教えてくれよ」
一段落して、そう尋ねた。
「…あたしは、百合子」
透き通った声。
とても、外見からは想像もつかない声だった。
「ふぅん…俺は慎哉」
「シンヤ?」
「そう、シンヤ」
「…なんで、シンヤは優しいの?」
「……」
何故だろう。
俺は明確な答えを持ち合わせていなかった。
そもそも、この猫を助けた理由が…
「…なんとなく、だな」
「なんとなく」
「そう。気まぐれ。百合子みたいに、猫みたいに、気まぐれ」
「百合子は猫じゃない」
「分かってる。だけど、猫みたいだったから…」
「じゃあ、シンヤも猫だ」
「かもな」
百合子と会話をして…ハッとした。
自分が、笑っている。
中学校を抜け出してから、笑ったことなんて一度も無かった。
そう…8年間、ずっと。
それが、気まぐれで拾った百合子と、たった1日の間で、
俺は、笑顔というものを取り戻していた。
「あぁ…俺、少し、行かないといけない所がある」
「え…?」
百合子の顔から、サッと光のようなものが消えた。
「どこに行くの?私は捨てられるの?やだ!」
うろたえる百合子。
その哀願の表情が、とても儚くて…今にも壊れそうだった。
「心配しなくていいよ。病院に行くだけだから」
そう言うと、百合子の顔がパッと明るくなった。
「うん、それならあたし、待てる。でも、シンヤはどこも悪くない」
「そうだね…怪我でも病気でもない」
「じゃあ、なんで?」
「それはね、俺が行くのは精神病院だからだよ」
「でもシンヤは元気そう」
「それでも行かなきゃいけないんだ。いつもこの性格でいられるように」
「?」
「まぁ、そのうち分かるさ…2時間ほど空けるから」
「うん、わかった」
とても素直な百合子。
多分、こういう性格だから、悪い男に言いくるめられて
ああいう事をされていたのだろう…
病院へ着き、手続きを済ませ、数分待つとすぐに呼び出しがかかった。
どうもこの病院は結構暇らしい。
「やあ、こんばんは」
「…こんばんは」
「どうしてこんなに遅くなったのかね?」
普通、定期検診とは言え、夜に診察に来る奴も珍しい。
そんな時間帯でも開いているこの病院も気になるが…
「…ちょっと、人助けを」
「ほぅ。それは感心だね。さて…」
主治医は机の上のカルテを取り、メガネをかけてから再び喋り始めた。
「最近、何か変わったことは?」
「今日、猫を拾った」
「ん?人助けではなかったのか?」
「人を助けた。けど、猫みたいな奴だから」
「では、何故?」
「…気まぐれ。路地裏で、鎖につながれていたから」
「鎖…ね。で、その鎖はどうしたんだね?」
「壊して捨てた」
「壊して…そんなに君は怪力だったのかね?」
「さぁ…壊そうと思ったら、壊せた」
「ふむ…」
主治医は神妙な面持ちで、次の質問を考えているようだった。
「では、その助けた人は、どんな人なんだね?」
「年は12〜3くらいの女の子」
「で、その子は今は?」
「家で待ってる。とりあえず風呂に入れた」
「そう…か…」
再び神妙な顔。
俺の何が間違っているというのか。
「とりあえず、幻覚症状を抑える薬も出しておくから。
精神安定剤はいつものとおりだ」
「はい」
多分、このジジイには何を言っても無駄だ。
だけど、逆らうと親に報告されて、親が飛んでくる。
そんな面倒事は嫌いだから、俺は素直に従う。
「…また、手に入ったから」
友人に電話をかける。
俺がもらう薬というのは、重度の精神病患者に渡される薬らしい。
そんな俺が何故入院していないかというと、
親の圧力が強くかかっているからである。
親の強い要望によって、俺はこうしてマトモな生活が許されている。
「分かった。例の場所で受け取る」
例の場所…街頭の届かない場所に、ひっそりとあるバー。
俺たちは事あるごとにその店を利用している。
店に行くと、既に友人達が待っていた。
「よう慎哉。こっちだ」
友人に招かれて、その隣の席に座る。
俺は病院でもらった薬を渡し、友人から金を受け取る。
「おおっ、今日は新薬か。上乗せしねぇとな」
「いや、いいよ。1杯おごってもらえれば」
「いいぜいいぜ。そんなんでよけりゃよ」
友人と一緒に酒を交わす。
昨日までは、この瞬間が一番楽しい時だったが…
「悪ぃ、今日はそんなに遅くまでいられないんだ」
「お、どうした?女でもできたのか?」
「…ちょっと違うな。猫を拾ったから」
「猫?猫なんてほっとけよ。今日はめでたい日なんだからよ」
「…悪ぃな…そういうわけにもいかないんだ…」
「…そうだな。お前は俺達みたいな堕落者じゃねえんだしな」
「すまん」
「なに、気にすんな。またツーリングでも行こうぜ」
「あぁ、その時は頼むよ」
「なぁ、その猫ってどんなんだ?」
「んー…12〜3歳の女の子」
「はぁ!?そ、それって人間…?」
「そうだけど…」
「…なんだ、動物の猫だとばっかり…で、どうしたんだ?」
「え?」
「だから、どっからそんなの拾ってきたんだよ。誘拐か?拉致か?」
「違う、助けたんだ。鎖につながれてたから」
「…はぁーん…いろいろあるんだナ…裏ってやつは」
「そういうお前こそ、裏の人間だろ?」
「そりゃーそうだがな…俺達でも干渉できない裏ってヤツだ…」
「ふぅん…あ、そろそろ帰らないと」
「お、そうか。それじゃ」
「うん、じゃあ」
その友人と別れ、店を出たところで…俺の記憶は途絶えた。
「はぁ…慎哉に女、か…」
慎哉を見送って、一人で酒を呑むことになってしまった。
ま、たまにはこういうのも悪くないか…なんて思っていると、
バァン!
店のドアが勢いよく開かれた。
そして、そこには、ダボダボの服を着た少女が立っていた。
「おいおい嬢ちゃん、ここはレストランじゃないぜ」
「それともナニか、俺達に遊んでほしいのか?」
店の奥から男どもの声が聞こえる。
だが、この少女の表情、ただ事ではない。
「黙れ!」
店の馬鹿共を一喝する。
「どうしたんだ?一体」
「シンヤが、連れていかれた!」
どうやらこの少女が、慎哉の言っていた子らしい。
だが…
「嬢ちゃん、それはありえない。アイツは喧嘩がものすごく強いんだぜ?」
「だけど!見張ってたら黒いのがシンヤに寄ってきて、
何か光って、そのまま動かなくなったんだもん!」
この少女の剣幕、どうやら…
「…嬢ちゃん、本当なんだな?」
「だからっ!早くしないとシンヤが!」
「落ち着け。落ち着いて。どうやって奴はさらわれたんだ?」
「う…え…っと…バイクだった。うん」
「どんなバイクだった?」
「う…」
「思い出すんだ。それが分からないと、何も出来ない。色とか、形とか」
「うーん…何か…そう…緑。緑色のがあった」
「緑…か…」
「あと、横に「隼」って書いてあるのもあった」
「そうか…ありがとう」
間違い無い。
緑のバイクといえばカワサキ。
そのバイクにのってる集団といえば、ひとつしかない。
俺は携帯を取りだし、全員に緊急召集をかける。
「ノブ。緊急集合だ。陵岳公園駐車場に10分以内!」
「ど、どうしたんですか?」
電話の向こうの声が慌てている。
「…慎哉が族に拉致された。…紅蓮にだ」
意識が混濁している。
視界は最悪。何も見えない。
時折、体に痛みが走る。
何かの声が聞こえるが、何を言っているのかはわからない。
…猫。
あいつはどうしたんだろう。
それより、何故、今になって猫のことが…?
「オラ、起きろよ」
何台ものスポーツバイクがアイドリングしている音が聞こえる。
意識が、徐々に鮮明になってきた。
俺の体が数人によって持ち上げられ、何かの上に座らされた。
「じゃ、海に捨てに行くか」
歓声が湧き上がる。
同時に、バイクがけたたましく吼える。
どうやら、これから殺されるらしい…
……
……?
バイクは一向に発進しない。
誰も喋らない。
アイドリング音だけが響いている。
何事かと思うと…とても聞きなれた音が聞こえてきた。
「おい…まずいんじゃねぇか?」
「あの音…奴らじゃないのか?」
どよめきが聞こえる。
なるほど、状況が一変したらしい。
この、地響きのような音は、今日薬を売った奴らだ。
俺は死なずに済むらしい…
消えるエンジン音。
いがみ合う声。
そして、衝突。
咆哮と叫喚が入り混じる。
俺はバイクから振り落とされ、そのまま蚊帳の外に。
すると…
「大丈夫?」
この声は…猫か。
「どうしたんだ?」
「どうしたんだって、助けに来たに決まってるじゃない」
「だって…お前…」
「…心配だったんだもん…」
その一言が、俺の中に染み込んでいった。
安らぎ。
俺は、初めて、そんな感情を覚えた気がする。
どんな遊びでも、どんな薬でも癒せなかった。
だけど、この少女は、その存在事態が、
俺にとって最高のトランキライザーなのか…
「慎哉」
友人の声がはっきりと聞こえた。
もう意識はクリアだ。
視界も良好。
五感も生きている。
「仕上げだ」
「だな」
俺を拉致したと思わしき男。
暴走族・紅蓮のリーダーである男が、
バイクの前輪にくくりつけられている。
「しっかりとお返しをしてやれよ」
「……」
昔の俺なら、ここでこいつを殴り殺しているかもしれない。
だけど…不思議とそんな感情は浮かんでこなかった。
心はとても落ち着いている。
「おい」
俺は、奴に声をかけた。
「次に俺に絡んできた時には…俺のヴァルキリーで轢き殺すからな」
「……」
奴は答えない。
だが、直々に手を下す気は無い。
だから、
「おう、好きなようにしちまっていいぞ。俺は帰るわ」
それだけ言い残し、猫の手を取った。
「…帰るか」
「うん」
多分、これがきっかけで、俺は表の世界に帰ってこれるかもしれない。
またおかしくなっても、俺には猫がいるから…
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