静寂。
真夜中の山中に、都会の喧騒など届くはずも無い。
車の中には、外の寒さなど全くの無関係。
だが、この車自体も、今は本来の役目を果たしていない。
「……。」
私の隣には、この車のあらゆる機能を操作するためのスイッチ類や
レバー、そしてそれらを操作するための座席がある。
しかし、この車の持ち主、その席にいつも座っている人は今はいない。
私は、本来の機能の大半が沈黙したままの車内で、一人残されている。
10分くらい経っただろうか。
彼はまだ戻ってこない。
やわらかいシートと、外を視認するためのガラス窓と、
少しずつ冷えてきた室温が、私の感じられる全て。
試しにワイパーのレバーを動かしてみても、エアコンのスイッチを押してみても、
車は何の反応も示さない。
それはもちろん、ハンドル横に穿たれた鍵穴に何もささっていないから。
2t近い巨体を動かす、魔法の鍵を持つ彼。
そして彼自身も、私の空虚な心に穿たれた穴を埋める鍵。
それなのに…
その時、突然車の鍵が開いた。
この鍵を解除できるのは…彼しかいない。
窓の外に目をやると、微かな月明かりに照らされた彼がこちらに歩いてくる。
「ぁ…」
私は声をかけようとした。
だが、声にならなかった。
それは、彼が…とても怒っているように見えたから。
…私は、彼が乗り込んでくるのを横目で見ながら、黙ってシートベルトを閉めた。
私には何があったかは分からない。
何があったのか、誰かと会っていたのか、それが他の女なのか。
だけど、今は何も言わないほうがいい。
たとえ、今夜で今生の別れが来ようとも。
彼が鍵を捻ると、車は叩き起こされるように目覚めた。
ヘッドライトを点灯させると、スイッチ類にも連動して光が灯る。
…車は、本来の機能を得た。
いわば、この車は今、完全に満たされている。
…だけど、私の空虚はただ広がるばかり。
何も言わない方がいいというのは、分かっているけれど…
やがて市街地に出て、街の明かりが目にしみる。
信号が赤になったので、車は緩やかに停車する。
…と、私の頬に冷たい何かが当たった。
でも、一瞬でソレが何かを理解した。
冷たいけれど、優しい手付き。
「…ごめんな」
とても落ち着いた声。
少なくとも、怒っているわけではないらしかった。
…でも、だからって、一抹の不安は捨てきれない。
この後に続く言葉次第では、私は…終わってしまう…けど、
「帰ったら…ゆっくり話すからさ。怒らないでくれよ?」
多分、今の彼は、とても優しい笑顔を浮かべているのだと思う。
けれど、私は彼に振り返ることは出来なかった。
かわりに、彼の冷えた手に自分の手を重ねる。
「…いいよ」
そう自分で口に出して初めて、私の心の鍵が開かれた気がした。
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