Essay
 
   一輪のバラ 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2022年7月号より)
 20年くらい前、母の誕生日にスーパーで買った380円の花をホラッと言って渡したらパーッと嬉しそうな顔をした。何だ、やっぱり嬉しいんじゃん・・・。翌年から母の誕生日には同級生のお店からビシッと大きな花束を届けてもらうことにした。すると毎回「まあ、あんたもまだまだ大変だろうに、本当にありがとう!」と言って電話がくるようになった。
 
 昔から母に何か買って行くといつも、「あんたも大変なのに。私はええから」と言われ、子の気持ちを上回る親の気遣いが返ってきた。ウィーンからバーゲンで1万円もしないスワロフスキーのネックレスを買ってきた時も、「私はいいから奈々ちゃんに(長女=当時中学生くらい)あげんさい」と言われ、もう絶対買ってこんぞ!と思った。しかし親にはすべてがお見通しなのだろう。確かに子どもを3人育てながらの音楽活動はフリーになってからますます大変だった。
 
 昨日は朝からめちゃくちゃ暑かったけど、庭の花を摘んで母のところに一週間ぶりに顔を出した。帰りにスーパーに立ち寄ると入り口の花店で1輪100円のバラをバーゲンで売っていた。
 今年になってもコンサートができず勉強も思うようにはかどらない。5月に行なった庭や駐車場の改築に続き6月からJCP事務所の改装にも取り掛かり、山のような荷物をレッスン室に移動させた。さらに今週になって始めた後援会報の編集も遅々として進まず、最近見る夢は「本番直前なのに楽譜がない!」とか「もう本番?まだ暗譜ができてないよ(曲を覚えてない)!」などロクでもないものばかりになっていた。
 暑さでやられた頭が「一輪のバラがすべて解決してくれる」とでも思ったのか、ふらふらっと100円玉を出してしまった。凛りんと咲いたバラは僕の移動とともに事務所から玄関、テレビの横へと移り今日になってもなかなか落ち着けない。
 
 ウィーン空港の到着ゲートに行くとたいていちょっとした花をもって出迎える人がいる。ある時日本からの便を待っていると一輪のバラをもって駆け寄る男性がいた。そこに若い女性がホッとした表情で出てきて嬉しそうに微笑んだ。おお!歌を勉強しているIさんだった。
 ルーマニアでクラリネット奏者のイオンの家に泊めてもらった時、夕方一輪のバラを持って帰り妻のリリアーナにニコッと差し出していた。
 オペラ劇場のカーテンコールでは、ゴムでひと括りにしたむき出しの花束を贔屓ひいきの歌手に向かって投げる人たちを何度も見た。
 ドイツ語学校で1か月のクラスが終わった時、クラスメイトの黒人女性が女性教師にとても心のこもった花を差し出した。やはり一輪のバラだった。
 
 どれもスマートでさりげなく温かさが伝わってきて、いつもまわりの空気が穏やかになっていくように感じた。
 
 僕も真似をしてみた。ある時ルーマニアに一緒に行った歌手が、長旅の疲れと緊張からか1日寝込んでしまった。ホテルの近くの路上の花屋で1輪の黄色い花(名前は??)を買い求め、彼女の部屋にお見舞いに持っていった。大きな花の癒いやしかエネルギーのお陰か、翌日彼女はすっかり回復して本番も絶好調だった。
 
 花はいい。
 今では家に咲いた花や時には裏庭に勝手に咲いた雑草のような花を適当に持っていくけど、母はいつも喜んでくれる。
 
 今ずっと気になっているウクライナで、集団墓地の映像ではこんな時どこから持ってきたのかと思うくらい溢れるような花で弔う様子が流される。
 人々は占領された町でも避難先でもどんなに不自由な時でも、きっとわずかな花を大事にしているだろう。
 
 
   祈 り 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2022年4月号より)
 今年のさくらは本当にきれいだった。
 淡いピンクのつぼみから春の訪れを探るようにぽつぽつ花が開き始めたと思ったら、アッという間に満開になっていた。お酒を注いだ盃のようなぬくもりに浸っていると、花びらは風に誘われ菜の花の上に舞っていった。
 今年はさくらとともに孫娘のぬくもりを感じていた。長女がコンサートで帰省してきたため3歳の孫のこもりを一手に引き受けたのだ。
 例年この頃、僕はいつもコンサートだったからゆっくりさくらを楽しむ余裕はなかった。それがいつの間にか棒を持つことがない、飛行機に乗ることがない、コロナの情報ばかりの「まさか?」の生活がずるずると2年間続いていた。3年目の今年はいくらなんでも復活を!と思っていたら再び世界は「まさか?」になってしまった。
 
 気が付いたらコロナのニュースは隅に追いやられ、テレビや新聞はもちろん、あらゆる手段で戦争の情報を集める生活になっていた。朝起きてスマホで確認して、仕事でパソコンの前に座ればまずはウクライナの情報を集めてしまう。
 
 キーウの知人にメールするとようやく一週間後に「大丈夫…」と返事が来た。隣国のスロヴァキア、ルーマニアにもメールをした。ロシアからはすぐに返信がきた。「再びあなたの美しい音楽に浸れることを望んでいる」・・・微妙な内容だったけど思いは伝わってきた。彼女の祖父母は70年前スターリンによってリトアニアからハバロフスクに移住させられ今は祖母、母の3人で暮らしている。
 
 ウィーンにもメールした。マネージヤーの「エレナ」はロシア人女性だ。彼女の母と彼女が離婚した元夫の母はサンクトペテルブルグでそれぞれ一人で暮らしている。そして彼女の一人息子は4年前ウクライナ人の女性と結婚して、昨年子供が生まれた。エレナにとっては初孫だ。
 人望も厚くロシアやウィーンで多くのコンサートを催行してきたエレナが、「戦争、戦争、戦争!Pのお陰でめちゃくちゃだ。今私は孫のところへ行く途中だけど、嫁にどんな顔をしたらいいの?ウクライナに住む嫁の母親のことも心配で!」と電話してきて早口でまくし立てた。
 さらにエレナの現在の夫はポーランド人だ。彼女はサンクトペテルブルグの母親、元夫の母親、ポーランドの現夫の母親のところをしょっちゅう行き来して皆をとても大事にしていた。
 そしてエレナは仲間もとても大事にする。彼女の息子がウクライナの女性と結婚すると聞いた時、「え?ウクライナはロシアにクリミアをとられたばかりでは?」と思っていると、「大丈夫!国同士はともかく私たちはみんな仲良しだから。ほら、うちのオケも両方いるけどみんな仲いいじゃん。」と言った。確かにその通りで僕も大好きなオーケストラだけど、さすがに戦線がここまで拡大してくると彼らの音もぎくしゃくしてくるのではと心配してしまう。
 
 5月に入るとウクライナでも日本が贈った何千本ものさくらが一斉に花開くはずだ。悲惨な映像を見ても心が動かない独裁者には、さくらの心が柔道に宿ることは理解できないだろう。
 ウクライナのさくらが人々を慰め希望の香りを届けてくれることを祈っている。しかし、今とてももどかしい。
 
 
   平 凡 
 (日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第83号より)
 まさか?と思っている間に3年目に入ってしまった。
 1年目は目の前のコンサートが一つずつ無くなっていき、2年目はさすがに中止?と思っていたコンサートが決行され、3年目の今年は先の予定が立たなくなってしまった。特にヨーロッパに渡航できなくなったのが響いた。
 
 これまでの人生でも「まさか」は度々あった。
 ‘89年の11月のある日、当時住んでいたウィーンで多くの人々がチケットを持たないで地下鉄に乗ろうとして混雑していた。戸惑っていると一人の婦人が今日は東側が解放されたから一日フリーパスになったのだと教えてくれた。当時ウィーンの北はチェコスロヴァキア、東はハンガリー、南はユーゴスラビアの厳しい国境があり、上、下、右を押さえつけられていてとても窮屈に感じていた。それが突然無くなるとは思いもしなかった。
 東日本大震災では東京のど真ん中で行っていたGPが何度も中断して、ステージ袖のテレビでは津波の様子がずっと流れていた。2か月後ドイツの地下鉄に乗っていると一人の婦人にどこから来たの?と尋ねられ、ヤーパン(日本)と答えるとスーッと離れていった。
 
 今、まさか3年目のコロナだけど周りで誰も陽性になったという情報が入らない。と思っていたら長女一家3人と独身の次女が同時期に罹患していた。無理もない、真夏のオリンピックの最中にそれぞれ東京のど真ん中で顔を近づける仕事をしていたのだ。長女一家は保健所から最後までほったらかしにされ、次女は部屋でゴロゴロ苦しんでいるとようやく10日目に電話が一本入ったそうだ。
 
 外出もままならない中、頼みのフィットネスも図書館も突然閉鎖され、せめて明るい希望を探さなければと思った。
 長女一家も次女もみな元気になった。息子が無事に大学を卒業して就職して初ボーナスをもらった。初孫が元気に3歳になった。母が元気に91歳になった。そして3日前、半年前から売りに出していたマンションが突然売れた。平凡な幸せがいっぱいあった。
 
 
   根拠はなくても自信 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2022年1月号より)
 小学6年生の時、同じクラスのSが文通をしていた。未知のものにあこがれていた僕がいきさつを尋ねると、雑誌の文通欄に応募したら10人から便りが来たといった。
 ある日学校から帰ると仕事(紳士服の仮縫い)をしている母の傍に一通の封筒が置いてあった。僕宛て?と思いながら開くと、文通したいという手紙とかわいい女の子の写真が同封してあった。翌日学校でそのことをSに話したら、俺がお前の名前で出しといてやったと言った。
 
 それから1ヶ月の間に100通もの手紙が写真入りできた。エ?10通くらいじゃなかったのか?・・それぞれの手紙を読んでいくと何と僕の名前が素敵だと書いてあった。ところが友人たちに協力してもらい全員に返事を書き上げた頃には文通する意欲はすっかり失せていた。
 
 そもそも僕は自分の名前が好きではなかった。皆からは「かずちゃん」と呼ばれていたのだけど、何だか女の子のようだと思っていた。実際「和子」という子もいて同じく「かずちゃん」と呼ばれていた。さらに平仮名でも漢字でも、僕は自分の名前がバランスよく書けなかった。「彦」に至ってはどう書いてもカッコ悪く絶望的だと思っていた。
 
 中学生になって、国語の時間に奥本先生が漢字の由来の話をしていた。ボーっと聞いていたら、「和」の話をしている。そのうち先生は「こんな名前は親が賢く育って欲しいと願って付けたんじゃ」といって黒板に「和彦」と書いた。すると周りが僕の方を振り向き、先生が「ん?誰かこの名前のやつがおるんか?」と言った。仕方なく僕が手を上げると「お前か!ほらやっぱり石井は賢いじゃろう!」と言った。担任ではない奥本先生が僕の成績など知らないだろうにと思ったけど、それから僕は自分の名前が少し好きになった。
 
 奥本先生は当時40代、いつも淡々と授業をされいろいろな話をして下さった。そしてたまに本を一冊だけ持ってきて、「今日はこの本を読んでやろう」といって1時間朗読して下さるのだった。この時間はとても楽しみだった。
 2年生になるとその奥本先生が担任になった。5月の放課後、教室の後ろで同級生たちとゴロゴロ騒いでいると、前方の机で仕事をされていた奥本先生に「石井まだおったんか?ちょっとこっち来い」と呼ばれた。「はあ?」と間抜けな返事をして先生のところに行くと、「お前の家に家庭訪問に行ったら、お母さんが『息子の成績が悪くて』と悲しそうに言われとったんじゃ。そいで学校に帰ってお前の成績を見たらびっくりしたぞ。わしゃお前は賢いと思うんじゃ。もうちょっと頑張らんかい!」と言われた。
 
 確かに僕の成績は自分でも不甲斐なかった。中学生になって人生で初めて順位をつけられた中間試験は310人中192番だった。そこそこ上位に行けるのではと思っていた僕はとてもショックだった。1年生が終わるころにようやく100番あたりになったものの、未だ希望する高校の合格ラインすれすれだった。
 
 当時月刊誌の「中一時代」が薦めていた、試験前にきっちりノートを整理するという勉強方法があまりにも非能率だと気が付いたのはずっと後だった。しかし不思議なことに、相変わらずの不毛な勉強でも奥本先生のひと言以来成績がグングン伸び始めた。テストの返却はいつも奥本先生が1枚1枚生徒に手渡しをされていて、「おっ石井、頑張ったな!」と言って頭をなでて下さることが増えていった。
 3年生になっても成績はそのまま伸び続け、学活の時間に担任の松本先生が、「石井の成績がどんどん上がっとる。今日は皆で勉強方法を聞いてみよう」と提案したことがあった。
 
 ところが無事高校に入って半年もしないうちに、進路を音大に決めてると成績はアララという間に下がっていった。音大の学科は勉強しなくても何とかなると思っていたのだ。それにあちこちレッスンに通い始め毎日の練習の方が大変になっていた。
 
 僕の人生は極端だ。しかし根拠はなくても自信とは不思議なもので、中学時代の先生のひと言により努力することが楽しくなり、僕の人生は豊になったと思う。中学卒業時の寄せ書きには恥ずかしげもなく「努力石井和彦」と書いていた。コロナ禍の今年も努力を楽しみコロナ後の人生をより充実させたいと思う。
 
 
   勝つということ 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2021年10月号より)
 高校2年生の時、体育の授業でバレーボールのグループ対抗戦を行うことになった。ところがこのメンバーじゃ勝てん!とぐずぐず言い始めたIを先生がぶん殴ってしまった。確かに先生が出席番号順に適当に分けただけで、僕たちのチームにはスポーツ万能のI以外運動部はいなかった。
 
 しかしそもそも対外試合で優勝を目指すわけでもないその場限りのデコボコチームだ。勝つことが目標というより、勝つためにお互いをサポートしながら協力することにより、「社会性をはぐくみ健全な肉体の育成を目指す」という体育科の目標を先生はIに理解させるべきだったのだろう。そうすればたとえ負けても、これからの人生で大事な「何か」を得られただろう。
 
 やはり高校生2年の時、全校クラスマッチで僕はバスケットボールに参加した。僕たちのクラスのチームは2つ編成され、1軍は運動部中心の勝ちに行くチーム、2軍は僕たち文化部中心の負けてもしょうがないチームになった。そして1軍は1年生チームと、2軍は3年生チームと対戦することに決まった。しかし僕は断然抗議して対戦相手を逆に変えさせた。すなわち僕たち2軍は弱そうな1年生と対戦できることになった。
 
 結果僕たち2軍はかろうじて1年生に勝ったけど、2回戦ではあっさり負けてしまった。そして1軍の方は1回戦で僅差で3年生に負けしてしまった。何だかちょっとだけ申し訳なかったかなと思ったけど、「勝つために誰かが犠牲になるのではなく勝つために皆が楽しむのがクラスマッチだ」と僕は勝手に定義づけ、これでよかったのだと思うことにした。
 さて今回のオリパラ開催では色々もめたけど、予想通り敢然と決行され、予想通り様々な感動があった。一方で背が高い、体が大きい、金を掛けられる人が断然有利なオリンピックが今の世の中に必要なのか?各競技のワールドカップで十分では?と思った。スポーツの振興に異議はない。しかし勝ちのみにこだわる今のオリンピックに結び付けられると、とたんに窮屈になりその影響は教育現場にも波及してしまう。
 
 今回さらに感動したのがパラリンピックだった。オリンピックより少ない放映だったけど、様々な肉体的条件の中で最善を尽くし喜び溢れる姿はとても素敵だった。そもそも人間はすべて何らか障碍者(しょうがいしゃ)だ。パラリンピックでは本来のスポーツが目指す本質をみたように思った。
 
 ふたたび俗界に戻ると、今日も僕はフィットネスで2時間汗をかいてきた(週3回程度です)。トレーニングルームでは20代から80代までの男女が一生懸命、あるいは心地よくそれぞれのペースでトレーニングしていた。僕は人に勝つ面倒くささや自分に勝つという窮屈さもカットして、インストラクターや知人、友人と言葉を交わし体の状態を整えている。
 おかげで最近はコンサートの練習や本番で4、5時間立ち続けても以前ほど疲れを感じなくなった。
 
 今は、いつ出来るかわからない次のコンサートのためにしっかり体を研(と)いでおこうと思っている。
 
 
   ガイドの皆さんは情熱的でした 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2021年7月号より)
 おっ!高崎さんだ!ふと付けたテレビでウィーンのベテランガイドを紹介していた。あれから30年間頑張ってきたんだと思った。30年前僕もウィーンでガイドをやっていた。当時高崎さんはギターの勉強をしていた。彼がガイドする時にはバスのトランク庫にいつもギターが載せてあった。
 
 1989年初めてウィーンの冬を迎えることになった。10月になると突然寒くなり日もどんどん短くなり、11月には無事長女の1歳の誕生日を迎えることができ、12月に入ると市内のあちこちはクリスマス市で賑(にぎ)わいわいはじめた。新年を迎えると舞踏会のシーズンになり、2月にはシェーンブルン宮殿の庭で長女が初めて歩いた。そうして花々が一斉に咲き始める春を迎えたときには、暗く寒い冬を親子3人で乗り切ることができほっとした。
 しかしその頃僕たちの生活費はすっかり乏しくなっていた。
 
 そこで大学が夏休みに入る6月末から観光ガイドのバイトを始めた。当時の日本はバブル景気まっただ中で、多くの観光客が怒涛(どとう)のようにヨーロッパに押し寄せていた。そのためウィーンでもライセンスを持っている日本人ガイドが不足しており、にわかガイドの僕でもとても重宝がられることになった。
 
 僕の初めての仕事は、アンカレッジを経由して17時間飛行機に乗ってウィーン空港に到着した40名の団体だった。正午過ぎに空港で迎え、重いトランクをバスに積み込みそのまま市内を案内して夕方にはホテルに送り届けた。引率の20代の女性添乗員はウィーンが初めてだった。彼女は疲労と寝不足でフラフラの状態でホテルに着くとダウンしてしまった。驚いたことに翌日はドイツに向け出発してその後1週間ヨーロッパを周遊するという旅程だった。当時日本からくるツアーはほとんど弾丸ツァーとも言われており、バスの運転手がいつもクレイジーだと言っていた。
 
 7月に入るとJTB、日通、日本旅行、さらにはオーストリア系、ドイツ系、イギリス系の旅行社からもどんどん仕事が入ってきた。夏休みの間それらの仕事をがむしゃらにこなしていると、3か月経たころにはベテランの領域に達していた。本当にガイドが足りなくて、今からハンガリーに行ってくれませんか?とかドイツまで行けますか?とか相当むちゃ振りもされた。
 
 生活のために始めたガイドだったけど、しばらくすると仕事と言うより「音楽の本質を勉強している」ことに気が付いた。
 シェーンブルン宮殿では、6歳のモーツァルトがピアノを弾きマリーアントワネットに結婚を申し込んだという部屋、女帝マリアテレジアと宰相(さいしょう)メッテルニヒの謀議の間、舞踏会が開かれた美しい広間などを説明をして、街中(まちなか)ではベートーヴェンが暮らした家、ブラームスが通ったレストラン、ハイドンが仕えた宮殿などを案内した。そんなことをしていると、200年以上昔のバロック宮廷の豪華絢爛(けんらん)な香りを感じ、作曲家たちの生活を想像するようになり、そこから生まれた彼らの音楽が納得できるようになってきた。
 
 そうして帰国するまでの残り1年間はガイドで稼ぎながら、大学やオペラに通いビーブル教授が指揮するオペラの仕事にくっついていた。当時のウィーンの生活は僕の人生で最も豊かな(お金はなかったけど)財産になるだろうと思った。
 
 その後僕は日本に住みウィーンを拠点にヨーロッパを徘徊する人生を選んだ。
 
 しかし今ウィーンでは日本人観光客を見ることはとても少なくなりライセンスガイドも仕事が無くなりほとんど日本に帰ってしまった。でもテレビで見た高崎さん、4年前ウィーンで久しぶりにお会いした梶原さんたちはそれぞれギタリスト、造形美術家として活躍され30年以上ガイドの仕事と両立してこられた。   
 彼らはウィーンに住み続けることを選んだ。それが彼らの人生にとってどれほど重要だったかテレビに映る高崎さんを見て納得できた。
 
 
   招 き 猫 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2021年4月号より)
 JCP事務所で仕事をしているといつものように天井でドン!と音がした。上のお隣の塀からネコが飛び移ってきたのだ。このネコはさらに下のお隣の塀に飛び移って行き、道路に降りて向かいの家の庭に入っていく(団地に住んでいます)。

 数日後2階からふと事務所を見下ろすと、何とくだんのネコが屋根の上で昼寝をしていた。玄関から10歩足らずの事務所は築23年、45万円のプレハブ造りだ。トタン屋根も強いわけではなく、大きな猫に毎日ドンとやられているとそのうち雨漏りがするのではと心配になってくる。

 ところで10年くらい前のことだ。週1で家事に来てくださる山本さんに指摘され、我が家の周りの地面がネコのトイレになっていることに初めて気が付いた。そういえばここに家を建てて間もないころ(もう33年目です)、母がネコがふんをするから障害物を置いといた方がいいと言っていた。几帳面なネコが用を足した後きちんと砂をかぶせているのでずっと気付かなかったのだ。

 それからは山本さんに教わって家の周りに石灰を撒いたり、ネコが嫌がるという匂い液をばらまいてみたりしたけどいずれも効果が無かった。遂にはこれでどうだとばかりにバラス(小石)を買ってきて家の周りにたっぷり撒いてみた。不審者の侵入防止にもなるし我ながらグッドアイデアだと思っていたら、翌日何とよりによって痛そうなバラスの上に大きなふんがドーンと乗っていた。こりゃ相当怒ってるなあと空恐ろしくなってきた。

事務所の屋根でお昼寝
 
 今度は事務スタッフの門田さんの助言で猫除け超音波装置を設置するとネコはすっと寄り付かなくなった。ところがそれから2、3年後、事務所で仕事をしていると近くで子ネコの泣き声がする。お隣の空き家から?と声の方向を探っていくと、事務所の床下でお産をしていた。ここには音波が届かなかったらしい。数日前から庭で挙動不審なネコを見かけていたけど、こういうことかと納得しながら子ネコたちを優しく(?)追い払い床下の空気口に網を張って塞いだ。

 もう大丈夫だろうと油断していたら、翌年は事務所の隣の倉庫の下でお産をしていた。何もこんなところで産まなくてもお隣の空き家でゆっくり産めばいいものをと思ったけど、やはり厳格な縄張りなどネコなりの都合があるのだろう。さすがにいい加減にしろとばかりに門田さんと追い回した末ようやく1匹だけ捕獲した。

 すぐに保健所に電話すると、ネコの受け付けは火曜日のみと言われた。その日は金曜日で4日間もどうするんだ!と思ったけど、とりあえず子ネコが入った段ボール箱を玄関に置き落ち着いて考えることにした。それから午後になっても、夜になっても子ネコの泣き声は全く聞こえなくなった。

 翌朝夜が明けるころ2階からそっとおりて玄関の様子を伺うと、ようやくかすかにガタガタ音が聞こえてきた。「おっ元気じゃん!」と思って近づくと再びピタッと音は鳴りやんだ。段ボール箱をそっと開けると子ネコは隅に固まっていた。きっと僕のことを鬼かなんかだと思っているのだろう。暴れる子ネコを何とか家にあったカゴに移した。

 強情そうな子ネコの顔を見ながらしばらく考えた。どうしょう?遠くまで捨てに行くか?3日間だけうちで飼って保健所に連れていくか?でもそうすると子ネコの人生は終わるなあ、親ネコも心配してるだろなあとか思いながら、とりあえずミルクをやることにした。

 冷蔵庫の牛乳を少しだけ温めて皿に移し目の前においてやった。しかし絶対に飲もうとしない。仕方なく右手で子ネコをつかみ左手で綿棒にミルクを浸して吸わせようとしても頑として口を開けない。腹ペコだろうに中々ガンコだなあと思いながら、今度はスポイドで無理やり口にミルクを入れ込むと堰を切ったようにチュウチュウ吸い始めた。右手に子ネコのぬくもりを感じながらその顔を見ているうちに決めた。「母ネコのところに返してやろう!」

 たっぷりミルクを吸わせた後、昨日他の子ネコたちが逃げた方向へかごから出してやった。二度とうちに来るなよと心でつぶやきながら見ていると、子ネコは不思議そうな顔をしてこちらを一度振り返りスッといなくなった。

 なんだか大仕事をしたような気分だった。翌週出勤してきた門田さんに逃がしたことを報告すると少しほっとしていた。その後超音波装置を3か所に増やすとさすがにネコは寄り付かなくなった。

 しかしまた最近事務所の屋根に大きなネコがドンと下りてくるようになった。さらにそのネコは超音波装置の前を堂々と横切るようになった。なぜ?・・・多分このネコは年を召して難聴になったのだと思った。そして気のせいか昔逃がしてやった子ネコが成長した姿にも見えてきた。

 今はネコが全く寄り付かない家には幸いも寄り付かないのではと思うようになった。事務所の屋根のドンと、庭を横切るくらいはまあいいかと思っている。そういえば昔出張で買ってきた招き猫を20年近くも玄関に置きっぱなしにしていた。
 
 
   会報90号と90歳 
(ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2021年1月号より) 
 母が90歳になった。近年は弟(独り身)と住む実家へ毎週顔を出し母の健康を伺っている。長女からラインで送られてくるひ孫の画像を見せるのだが、「まあかわいいねえ、この子は誰?」と聞く。「リリー(ひ孫)だよ!」というと「ああそう〜それでこの隣は?」「ばあちゃんの孫だよ」と毎回同じ説明をする。耳が遠くなっても絶対補聴器を付けようとせず、年相応に物忘れも増えてきた。しかし庭の草取りを日課にするためか足腰もそれほど弱っておらず本当にありがたいことだと思う。

 これくらいの年齢の人たちはいずれも僕たちには考えられないほどの苦労をしているけど、母も例外ではない。母が小さいころ両親が離婚し、母と母の姉は父方の実家で育った。そこは裕福ではなかったものの農家だったこともあり、戦中も食べるものには困らなかったという。

 僕は小さいころから盆や正月に泊りがけでその母の実家に行くのが何よりの楽しみだった。お年玉やお小遣いをもらい従兄弟たちと山や川で走り回って遊んでいた。

 しかし実家の当主は先の大戦で亡くなっており母たちはそのお嫁さんに育ててもらっていた。その人のことを僕たちはおばさんと呼んでとても慕っていた。そこにいる10歳以上年の離れたお姉さんやお兄さんたちにも本当によくしてもらった。それからこれまでずっと親類付き合いをしてきたけど、どのような血縁関係にあるのかずっとわからなかった。

母が持つただ1枚の家族写真。フィリピンのダバオにて昭和8年(1933年)頃。母親のひざに抱かれているのが母。その右が母の姉。  
 
 母の親類関係などを整理したくなり先日市役所に行って原戸籍(はらこせき)をとった。1時間かけて古い戸籍を調べてもらい、母が結婚するまでの7枚の戸籍から文化9年(1812年)生まれの曾々祖母までたどることができた。

 それによると、母と母の姉はフィリピンのミンダナオ島ダバオで生まれていた。ところが母が5歳の時昭和10年に両親が離婚してしまい、母親によって姉とともに日本に連れ帰られ父親の実家に預けられた。それ以来母と母の姉は結婚するまでそこで育った。

 母の父は翌年やはり同郷の女性と再婚してそのままフィリピンで事業をしていたが、昭和20年7月の戦闘に巻き込まれ再婚後生まれた8歳の女の子と共に死亡していた。

 母が小学校に入った頃、運動会の時ふと母親がやってきて飴玉をくれたという。子供の頃母親に会ったのはそれが最後だという。次に会ったのは母親の妹(母の叔母)だ。

 母が結婚して幼い僕を連れて買い物に行ってると、一人の女性が近づいてきて「ああ、信(のぶ)ちゃん元気だった?」といって涙をボロボロ流されたという。それは母親の妹さん(母の叔母)だったそうだ。

それから30年近くたった昭和の終わり頃母はもう一度母親に会った。母親の妹(母の叔母)から連絡があり今は東北に住む母親が会いたがっていると言ってきた。母が50代、その母親が70代だった。

 母は、「会ってもいいけどその時は育てて下さった実家のお嫁さんにちゃんと挨拶をして欲しい」と返事したところ、それはできないと言われた。母が母の姉と相談して迷っている頃、父が「色々思いはあるだろうけど会うだけ会ってみれば」と言った。

 結局僕たち家族が住む家で母と母の姉、母親とその妹の4人で会うことになった。母親は、「再婚して満州に行って、終戦後は東北に引き上げ子供は大学教授になった」と自分の話だけして帰って行ったそうだ。母親の妹さんはとても申し訳なさそうにしていたという。その日僕は仕事が休みでずっと家にいたのだけど祖母?に会うことはなかった。彼女たちが帰った後母と母の姉は「あれが私たちの母親なのか」と寂しそうに話していた。

 母のところに行くと度々「まだ死にたくない、100歳まで生きたい」と言う。そして穏やかな顔で「親はいなかったけど、皆がよくしてくれたから一度も寂しいと思ったことはない」とも言う。それは本心だろう。またそう思いたいのだろうし、さらに母の姉がいつも傍にいてくれたからそう思えたのだろう。

 確かに母を育ててくれたお嫁さんも、そこの人たちも、母親の妹さんも母の周りの人たちはみな優しかった。僕もとてもよくしてもらった。原戸籍では母を育ててくれたお嫁さんは母の従弟のお嫁さんだった。

 年末には孫やひ孫が東京から帰ってくる。しかし今回母には家の外から顔を見せるだけになりそうだ。本当に100 歳まで何事もなく過ごして孫たちにお年玉をやって欲しいと思う。僕も健康に気をつけて穏やかになった母の顔をいつまでも見ていたい。 
 
 
   恩 人  
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2020年10月号より) 
 ラッパ吹きになって3年目、24歳の時スランプに陥った。ソロ(一人で吹くこと。時にはカッコいいところ)が出てくると怖くて逃げたくなってしまうのだ。金もないのにあちこちから楽器を取り寄せとっかえひっかえを繰り返したり、マウスピース(吹くとき口に当たる部分)を削って調整をするのだけど、ますますドツボにはまってしまうだけだった。いつの間にか芸術の秋(当時はそう言われてた)になり毎日のようにコンサートが続くと、連日綱渡りをしているような気持ちになった。打楽器の先輩には、「オケを辞めるんならビシッといい演奏してからにしろ!」と言われる始末だった。

 ようやく、そもそも学生時代から使い続けていた楽器が自分に合ってないことに気が付いた。最終的にやっぱりこれだ!と思って取り寄せたのは、ドイツのアレキサンダー社のホルンだった。その楽器は大学1年の時、父に無理して買ってもらったものと同じ型だった。ところが大学3年になって新しく来られた先生がその楽器をとても嫌っていて、言われるままに他社の楽器に買い替えてしまったのだ。当時僕は20歳、先生は一流のN響奏者だったから無理もなかった。

ラッパ吹きだった頃の石井
 さんざん苦しんだあと再びドイツからアレキサンダーを取り寄せる手配をしたものの、既に僕のメンタルは相当弱っていた。あれこれ考えすぎて集中できないのだ。特にラッパ吹きは音楽というより大事な音を百パーセント当てに行く一発屋みたいなところもあって、とてもリコーダーを吹くようにはいかないのだ。

「こりゃもう滝にでも打たれて修行するしかないかな」と行きつけのスナックでこぼしていると、ママさんが「あら、私の知り合いのお寺で座禅してみたら?」と言ってくださった。

 翌日さっそく電話してお寺に伺うと、若くてほっそりした美しい奥様が出てこられ、背後から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。そしてすぐにやはり若くてほっそりした優しそうな方丈様(ほうじょうさま=ご住職)が応対してくださった。その日から2日間は何とかコンサートをこなし、3日後の早朝初めて座禅を組ませていただいた。

 まずは短い線香に火を付け消えるまでの30分間座らせてもらった。初めての座禅だったけど必死だった。その日は午後に練習があり翌日はモーツァルトのホルン協奏曲を吹くことになっていた。それにはようやく届いたアレキサンダーのホルンを使うつもりでいた。新しい楽器の癖を探ったり調整する時間もなかったけど、一か八かもうそれで行くしかないと思っていた。

 30分の座禅はこれから起こることの不安で煩悩ぼんのう100パーセントだった。「無」になるのはどだい無理だと悟り、翌日の本番が終わるまでを頭の中で一生懸命シュミレーションした。そして午後には車で1時間かけて広瀬町に行き、非常勤講師をしていた河山中学が出場する音楽祭で合唱を指揮し、そのまま広島まで2時間半かけて行きオーケストラの練習に参加した。

 新しい楽器でのホルン協奏曲は・・・シュミレーション通りスーッと吹けた。コンサートマスターに「何か問題ありませんか?」と聞くと「素晴らしい!」と言われた。スランプ脱出の瞬間だった。翌日の本番はそのままの流れでさらっと吹けた。

 それからオーケストラを辞めるまでの1年半は2度とスランプは訪れなかった。年末恒例の第九では「今日は良かった!おめでとう!」と言って指揮者から花束をいただき、辞める時にはコントラバス奏者から「石井さんのホルンがいいんや。辞めたらいかん!」と言われ、フルート奏者の大御所からは「あいつは本当に上手くなった!」と言ってもらえた。それらはすべて洞泉寺(とうせんじ)の方丈様のおかげだった。

 最初の座禅いらい、前の晩に本番があってもできるだけ早起きをして暗いうちから座りに行くようになった。30分の線香が消える頃、ときどき方丈様がふっと本堂に来られ、お茶をごちそうになり話をして帰るようになった。

 それはオーケストラを辞めてからも続いた。人生で行き詰っているときは、「何か悩みがあるんじゃないの?」とさらっと言われ、どんなつまらないことでも静かに聞いてくださった。由緒あるお寺の偉い方なのだけど、そんなそぶりは全くだされず「仏様(ほとけさま)はこういってるんだよねえ、それはたぶんこういうことだと思うんだよね。」と気さくに優しく語られるのだった。そして般若湯(はんにゃとう)は大好物でとか言われ、奥様の美味しい料理と一緒にお酒もたびたびご馳走になった。

 それは僕がウィーンに行くまで10年以上続いた。よくお付き合いいただけたと思う。

 43年前のあの時僕の人生は本当に危なかった。コンサートも何もできない今現在も希望をもって音楽の勉強ができるのは、方丈様と洞泉寺のおかげだ。 
 
 
   つゆ雨にあじさい咲く境内にて 
(ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2020年8月号より) 
 僕と弟が小さい頃、父の帰りは毎晩遅かった。たまに早く帰って来て一緒に寝ることがあると、たいてい川の字になっていつも色々お話をしてくれた。「父ちゃん、なんでそんなにいっぱい話を知っとるん?」と聞くと、いつも図書館で読んだと言っていた。弟はポケットモンキーという小さなお猿の物語が好きだったけど、今考えるとすべて父の創作だった。

 僕が小学校に入った頃、父に近所の図書館に連れて行かれた。そしていつでも本が読めるように司書の方にお願いしてくれた。赤いレンガ造りの重厚な建物は子供にとっては敷居が高く、時々恐るおそる行っては絵が多い本を眺めていた。

 家にはいつのまにか文学全集が揃っていた。子供ながらに父は難しい本を読むのだなと思っていたら更にもうワンセット全集が増えていた。漫画に飽きたころ、僕は少しずつ文字が小さく難しそうな本を手に取るようになった。高校になってすべて読み終えた頃、苦手だった国語の点がいつのまにか勉強しなくても取れるようになっていた。

1973年 父が50歳、石井が大学3年の夏休み
 僕たちがテレビを見ていると、父はしばしば隅のこたつで会社の新聞折り込みをデザインしていた。そうかと思えば何やら難しそうな本を読んでいた。そしていつの間にか社会保険労務士の資格をとり56歳で会社を辞めた。

 僕たちの部屋はあっても父の書斎はなかった。6畳間が家族のリビングであり、両親の寝室であり、その隅のホームこたつが父の書斎だった。僕たちががやがやテレビを見ていた時父は隅のこたつで黙々と勉強していたのだった。

 社労士になってから81歳で辞めるまでの25年間、いつ実家に行っても父は考えごとをしていた。

 父の家は裕福ではなく、高等小学校を卒業後上の学校に行くことができなかった。祖父(父の父)は実家が炭鉱事業や郡長(福岡県遠賀郡)などしていて勢いがあった頃祖母と結婚した。しかし祖母が嫁いでみると家はすでに傾いており盛大な祝宴はすべて借金だった。ところがお菓子問屋だった祖母の家も実は既に破綻していた。

 父は没落したまろとお姫様の子供だった。父の慎重はそれゆえでありのんきさは長男の性格と祖父のゆったりが重なったのだろう。次男でありながら実質長男の役を担った父は新聞配達や牛乳配達をして4人の弟妹の面倒をよく見ていた。

 父に反して下の弟(叔父)は貧乏をバネにして何度か会社を興していた。僕が中学生になった頃、アメリカ視察から帰って来た叔父が山のような土産を持ってきて「かずひこ!アメリカでは靴でぶちけってドアを開けるんじゃ!トロトロしてたらすぐ置いて行かれるんぞ」と言っていた。叔父の人生は常に行け行けで、言葉通り会社を大きくして悠々と引退した。

 叔父に比べ父の人生は本当に平凡だと思っていた。

 しかし、僕が大人になり社会に出て家庭を持ち子供を設け初孫を授かり、父の年齢を今の自分の年齢に重ね合わせ謎解きのように考えていくと、父のことが少しずつ理解できるようになってきた。

 父は仕事の合間に俳画や俳句を嗜んで賞をもらったり、美術館巡りやコンサート等いつも静かに楽しんでいた。若い時には軍楽隊に応募したくらいだ。今考えると僕の人生はそのまま父が望んでたものにも思える。

 先日父の13回忌を終えた。命日は12月31日だがコロナ禍のこともあり、できるうちにやっておくことにした。

 当日お寺に伺うと、大学で修行中の息子さん2人が加わって下さった。オンライン授業になってしまい帰ってこられたそうだ。東京から帰省(疎開)中の長女&孫娘を含めても6人の参加だったが、住職と息子さん3人による読経法要は本当にありがたく感じた。毎晩のささやかな晩酌を楽しみに、ずっと好きなことを続けさせてくれ黙って応援してくれた父には只ただ感謝しかない。
 
 
 
  広瀬さん 
 (ジャパンチェムバーフィルハーモニー後援会報 2020年4月号より)
 「久しぶりに食事でもしない?」3年前の夏、いつもお世話になっている病院に行くと広瀬さんが診察待ちをしておられた。広瀬さんにお会いしたのは2年ぶりだった。その時93歳、足腰は随分弱っておられたが変わらずお元気だった。

 病院を出て2時間後広瀬さんとステーキ店のカウンターに座っていると、50歳くらいの女性が男性2人を伴って入って来た。食事をしてそのままスタンドに同伴出勤するらしかった。女性は、少し離れた席から男性客と話を合わせながら時々こちらの様子を伺っているようだった。「誰だろう?どこかの店で会ったかな?」と思いながら広瀬さんの方を見ると、特に気にする様子も無く草履(ぞうり)のような牛肉を美味しく完食されていた。

「気のせいだったのか?」と思いながら店を出て、広瀬さんを支え10mくらい歩いた時、さっきの女性が店の戸を開け小走りにこちらに向かってき来た。そして、「私のことわかりますか?昔よくお店に来ていただいて」と懐かしそうに広瀬さんに話しかけ、懇情の別れのように寂しそうな顔をして先ほどのステーキ店に戻って行った。
 
在りし日の広瀬さんと私
 
 3年前のこの日が広瀬さんとの最後の食事になった。その後も1人住まいの広瀬さんが気になり時々電話をかけたりしていたが、1年前からほとんど繋がらなくなっていた。

 昨年の5月、やはりいつもの病院で広瀬さんが介護型の病院に入院されたとお聞きした。2ヵ月後車で20分くらいのその病院に伺うと、いつものように知的でおしゃべり好きの広瀬さんがベッドに横たわっていた。「いやー嬉しいなあ!こんなところに入って誰も来てくれないと、俺ももう終わりか?と僻(ひが)んじゃうんだよね」とおっしゃった。

 それから3度目の11月に伺った時には近々演奏するモーツァルトをスマホで聴いていただいた。広瀬さんが大好きだった曲だけど口も動かせず意識もはっきりしてないようだった。年が越せるかなあと思っていたけどやはりこの時が最後の別れになってしまった。1月1日の朝、96歳を目前に亡くなられた。

 2月になって息子さんから連絡を頂き、久しぶりに広瀬さんの御宅にお邪魔した。数学から宇宙、音楽、文芸など様々な分野の積み上げられた本、オペラから交響曲までぎっしりと整理されたレコード、自身で編集、出版された植物関係の専門書、世界中旅をして触れ合った人々との多くの写真。そこではあらゆることに興味を持ち楽しく取り組み充実した広瀬さんの人生が感じられた。その中から僕は1冊の本を遺品としていただいた。こんなものにも興味があったのかと感心しながら、ウィーンで勉強、活躍した打楽器奏者の素敵なエッセイを読ませていただいた。

 広瀬さんとのお付き合いは、25年前僕のコンサートのことを新聞に寄稿して頂いた縁で始まった。以来、各種催しや食事など度々誘っていただくようになり、僕がウィーンで勉強している時には2人の女性を伴ってふらっと陣中見舞いにも来て下さった。

 そのように年齢や肩書きに関係なく誰とでも楽しく過ごせる人だった。「あそこの店に可愛い女性が入ったんだ、行ってみない?」と飲みにも度々誘って頂き、お店に行くと「どう?素敵な女性でしょう?」と言ってお茶を飲みながら会話を楽しまれるのだった。父と同年代だったけど、広瀬さんは僕にとって人生を豊かに生きるメンターであり「友だち」だった。

「石井さん、あそこの喫茶店は美人姉妹がやっててね。僕は時々お昼を食べに行くんだけど、今度一緒に行こうよ!」

 こちらはついに実現しなかった。今度は僕が誰か誘って行ってみよう。
 
 
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