お詫び
 この(158)話に次回の(159)がリンクしていたことを、お詫び申し上げます。この間違いを、わざわざ山口県からお電話いただきました西村様には深く感謝いたします
 本来なら、こうしたホームページには、皆様からの、ご意見やご連絡を頂くスペースを入れねばなりませんが、なにぶん小さい全く公的な支援のない博物館で、実質的には3名ばかりで、全ての業務を、おこなっておりますので、メールなどに対応できる時間がありません。この点もお詫び申します。
 今後とも、少しでも多くの方が考古館にご来館いただき、御支援いただきますよう、お願い申し上げます。
 
なお10名以上くらいの団体でお越しの際、前もってご連絡いただければ、出来るだけ館内のご説明は、専門のものが対応できると思います。
岡山市飽浦にある甲浦小学校近くの山裾で土取り中に出土
古墳時代後期の太刀と須恵器壷(壷高さ21.5cm 太刀(上)全長95cm)

下のスケール 標部分までが50cm

このとき採集の遺物は、今考古館の展示ケースにある。これを見ると、いまでは50歳をかなり越した娘の、あの日の顔をまだ思い出す。

ともかくこの破壊され消滅した古墳に副葬されていた太刀は、八幡大塚出土の太刀より、10cmばかりは短いが、武器としては立派な物だっただろう。古墳の位置関係から見ても、互いの古墳の時期から見ても、この古墳は八幡大塚と無縁の存在とは思えない。この太刀が、吉備と大和の関係の中で、血塗られたことがあったか、まったく儀装的なものだったか、判断の資料は今は無い。

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おとくな情報 ◎考古館見学にはこのページをコピーしてご持参ください 入館料が団体料金に割引 1枚で5名まで
大人400円→250円  大・高生250円→150円  中・小生200円→100円


〒710-0046 倉敷市中央1-3-13 Tel.Fax(086)422-1542 財団法人 倉敷考古館

 時期は違うが、この近くで、やはり土取りで消滅したいま一基の古墳にも、触れておこう・・・これは先の八幡大塚発見より、6年も前のことだったようだ。

1959年の正月、普段はめったに帰れない実家へ、短い正月休みに訪れた時、先に問題とした八幡大塚からは、7800mも離れない東方、小学校近くの山裾で土取りが行われているという。

何か古いものが出ているらしいと知らせてくれたので、正月の着物のままで一寸と出かけたところが、やはり後期古墳の破壊跡だった。もともと古く石室の石材は、抜き取られてしまったようで、僅かに遺物が、古墳基底部に残っていたのであろう。

仕方なく襷がけで裾を端おり、ありあわせの道具を借りて、かなりな泥をよける羽目と成った。ともかく土中から拾い出せたのが、不思議と完形であった須恵器の壷と、古墳基底部に張り付いていたと思われる、2本の太刀であった。

思わぬ時間がかかり、実家に残してきた生後4ヶ月過ぎの娘の、授乳時間を23時間は過ぎていた。母乳だけで育てていた時期、乳の張りを感じる中に、娘の泣く声を聴く思いもあった。

帰り着いたとき、娘は、祖母の背中でぐったりとして寝ていた。祖母にも娘にも申し訳ないことだった。泣いて困らした様でもなく、お茶も飲んだ様子もない。起こして乳を含ましても、あまり欲しがらなかったし、少々無表情。無責任な母親にふてていたのか・・・

(左上)破壊途上の八幡大塚の石室。頂部に、かつての地表が残る。   (右上)分解して取り出されていた石棺
(左下)石室入り口より外に伸びた排水溝を見る  (右下)排水溝と石室入口 {斜め画面で撮影}

石棺内には、土砂の流入はなく、金製の垂飾付き耳飾りをつけ、銀製空玉の頚飾りをし、刃の長さが1mを越すような太刀を横たえ、足元には矢の束もある人物が窺えたが、人骨は粉と化していたという。

石棺は組み合わせだが、蓋の長さは2.5mで大形、しかも兵庫県の竜山石で作られていた。この石材での大形の棺は、大和王権やその周辺の最有力者が用いたもの、と見られる状況なのである。金製垂飾付耳飾も、めったな事にはお目にかかれない代物である。

『日本書紀』の記事をストレートに信じないまでも、丁度この頃、大和王権は吉備の国に、直接支配地ともいえる「みやけ(屯倉)」をあちこちに定めたとする。この中に児島の屯倉がある。こうした屯倉経営に、蘇我稲目も派遣されている。後に中央政権を牛耳る蘇我馬子の父である。

八幡大塚の姿は、この屯倉記事とどうしてもダブル。この墓が誰の墓だったなどというつもりは毛頭ないが、この古墳の主は、吉備と大和の関係を示す、重要な証人であった事にちがいはない。

 その後、この古墳保存が求められながら、1972年完全に壊され消滅したのである。この重要な古墳の調査報告は、『岡山県史 考古資料 』1986年に3ページ載るだけである。完全消滅の時、急きょ石室の外が調査された事で、この古墳には石室入り口から外に続く、立派な排水溝も発見されている。先の県史の報告には、そのことは一切記されていない。

この古墳が破壊された頃、現地を訪れたが、その時のスナップ写真、考古学に携わってきた者としては、やはりちょっと参考に示しておきたい。左に示した数点が、それである。

 

児島は東西で25kmばかり、現在は全くの陸続きであるが、幾度か述べてきたように、少なくとも中世までは島であった。瀬戸内海のほぼ中央に位置したこの児島は、『記紀』の国生み説話にも名前の挙げられている島である。島の南北には東西を結ぶ海路があった。縄文・弥生時代を通じ著名な遺跡が多く、古代の吉備文化を作り上げた、大きな要素にもなった島なのである。

この島の東半で北面した岬・・・ということは現在の児島湖出口で、岡山市街地方向に伸びる岬、古代で言えば、吉備の中枢部に向かう海路を、眼下にした地、その頂部に問題の古墳はあった。

1965年、高度成長がうたわれた時期、この地で整地工事が始まり、古墳の所在が知られたのだ。八幡大塚と呼ぶ6世紀も後半の古墳である。私たちは参加しなかったが、調査が始まる

径が35mの円墳、全く無傷で存在していた横穴式石室は、閉塞石で閉ざされたままで、全長は約8.5m、片袖式の石室は、玄室長5.5m・幅2m弱・高さは2.5m強、羨道は半分近く閉塞石で埋まっていた。赤く塗られた玄室の奥には、これも真っ赤な顔料で染まった、石棺があった。

東児島の北岸に突出した、岬の中ほどの高所が、岡山市八幡大塚。右方奥の横線は、児島湖締め切り堤防
                       (158)消えた児島の古墳

 先回は壊れた古墳や、失われた古墳に触れた。その一つは児島に関係した古墳だったので、この児島でいまは全く消滅した古墳・・・それは決して数少ない物ではなかったはずだが、少なくとも私どもも無縁でなかった、12の古墳にも触れておこう。これも60年を超える考古館の歴史、しかもそこに関わり続けた者の義務かもしれない・・・