このとき採集の遺物は、今考古館の展示ケースにある。これを見ると、いまでは50歳をかなり越した娘の、あの日の顔をまだ思い出す。
ともかくこの破壊され消滅した古墳に副葬されていた太刀は、八幡大塚出土の太刀より、10cmばかりは短いが、武器としては立派な物だっただろう。古墳の位置関係から見ても、互いの古墳の時期から見ても、この古墳は八幡大塚と無縁の存在とは思えない。この太刀が、吉備と大和の関係の中で、血塗られたことがあったか、まったく儀装的なものだったか、判断の資料は今は無い。
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時期は違うが、この近くで、やはり土取りで消滅したいま一基の古墳にも、触れておこう・・・これは先の八幡大塚発見より、6年も前のことだったようだ。
1959年の正月、普段はめったに帰れない実家へ、短い正月休みに訪れた時、先に問題とした八幡大塚からは、7〜800mも離れない東方、小学校近くの山裾で土取りが行われているという。
何か古いものが出ているらしいと知らせてくれたので、正月の着物のままで一寸と出かけたところが、やはり後期古墳の破壊跡だった。もともと古く石室の石材は、抜き取られてしまったようで、僅かに遺物が、古墳基底部に残っていたのであろう。
仕方なく襷がけで裾を端おり、ありあわせの道具を借りて、かなりな泥をよける羽目と成った。ともかく土中から拾い出せたのが、不思議と完形であった須恵器の壷と、古墳基底部に張り付いていたと思われる、2本の太刀であった。
思わぬ時間がかかり、実家に残してきた生後4ヶ月過ぎの娘の、授乳時間を2〜3時間は過ぎていた。母乳だけで育てていた時期、乳の張りを感じる中に、娘の泣く声を聴く思いもあった。
帰り着いたとき、娘は、祖母の背中でぐったりとして寝ていた。祖母にも娘にも申し訳ないことだった。泣いて困らした様でもなく、お茶も飲んだ様子もない。起こして乳を含ましても、あまり欲しがらなかったし、少々無表情。無責任な母親にふてていたのか・・・
石棺内には、土砂の流入はなく、金製の垂飾付き耳飾りをつけ、銀製空玉の頚飾りをし、刃の長さが1mを越すような太刀を横たえ、足元には矢の束もある人物が窺えたが、人骨は粉と化していたという。
石棺は組み合わせだが、蓋の長さは2.5mで大形、しかも兵庫県の竜山石で作られていた。この石材での大形の棺は、大和王権やその周辺の最有力者が用いたもの、と見られる状況なのである。金製垂飾付耳飾も、めったな事にはお目にかかれない代物である。
『日本書紀』の記事をストレートに信じないまでも、丁度この頃、大和王権は吉備の国に、直接支配地ともいえる「みやけ(屯倉)」をあちこちに定めたとする。この中に児島の屯倉がある。こうした屯倉経営に、蘇我稲目も派遣されている。後に中央政権を牛耳る蘇我馬子の父である。
八幡大塚の姿は、この屯倉記事とどうしてもダブル。この墓が誰の墓だったなどというつもりは毛頭ないが、この古墳の主は、吉備と大和の関係を示す、重要な証人であった事にちがいはない。
その後、この古墳保存が求められながら、1972年完全に壊され消滅したのである。この重要な古墳の調査報告は、『岡山県史 考古資料 』1986年に3ページ載るだけである。完全消滅の時、急きょ石室の外が調査された事で、この古墳には石室入り口から外に続く、立派な排水溝も発見されている。先の県史の報告には、そのことは一切記されていない。
この古墳が破壊された頃、現地を訪れたが、その時のスナップ写真、考古学に携わってきた者としては、やはりちょっと参考に示しておきたい。左に示した数点が、それである。
児島は東西で25kmばかり、現在は全くの陸続きであるが、幾度か述べてきたように、少なくとも中世までは島であった。瀬戸内海のほぼ中央に位置したこの児島は、『記紀』の国生み説話にも名前の挙げられている島である。島の南北には東西を結ぶ海路があった。縄文・弥生時代を通じ著名な遺跡が多く、古代の吉備文化を作り上げた、大きな要素にもなった島なのである。
この島の東半で北面した岬・・・ということは現在の児島湖出口で、岡山市街地方向に伸びる岬、古代で言えば、吉備の中枢部に向かう海路を、眼下にした地、その頂部に問題の古墳はあった。
1965年、高度成長がうたわれた時期、この地で整地工事が始まり、古墳の所在が知られたのだ。八幡大塚と呼ぶ6世紀も後半の古墳である。私たちは参加しなかったが、調査が始まる。
径が35mの円墳、全く無傷で存在していた横穴式石室は、閉塞石で閉ざされたままで、全長は約8.5m、片袖式の石室は、玄室長5.5m・幅2m弱・高さは2.5m強、羨道は半分近く閉塞石で埋まっていた。赤く塗られた玄室の奥には、これも真っ赤な顔料で染まった、石棺があった。
(158)消えた児島の古墳
先回は壊れた古墳や、失われた古墳に触れた。その一つは児島に関係した古墳だったので、この児島でいまは全く消滅した古墳・・・それは決して数少ない物ではなかったはずだが、少なくとも私どもも無縁でなかった、1〜2の古墳にも触れておこう。これも60年を超える考古館の歴史、しかもそこに関わり続けた者の義務かもしれない・・・