平成17(2005)215日 火 曇後雨
   午後1時からの金光の西岡憲一郎氏葬儀へ出席。・・・

 同 216日 水 曇時々雨
  ・・夕刻、西岡氏の息子さんが、昨日の葬儀のお礼に来られる。考古館にお父さんが置いておられるもの全ては、考古  館に寄付すること、家にあるものも寄付したいので、連絡して取りに来て欲しいとの申し出があった。
        (今回の腰飾りも、以前より西岡氏が考古館に寄託されていたものである)

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津雲貝塚出土の鹿角製腰飾
中津貝塚で耳飾・腕飾を着けていた女性
歯槽が閉鎖した抜歯痕が多く見られる
中津貝塚で男性人骨が着けていた、鹿角製腰飾り

この中津貝塚からは、他にも人骨が発見されていた。今回の写真(左上)のような、鹿角の叉の部分を利用して作られた、精巧な装身具を着装していた人骨も出土している。この遺物は、前回にも登場いただいた、故西岡憲一郎氏より寄贈されたものである。

実はこのような飾りは、写真(左下)にのせた、雲津貝塚の報告書(『備中雲津貝塚発掘報告』京都帝国大学文学部考古学研究報告 第5冊 1920.10)より複写の鹿角製の装飾品と同類の遺物で、それは男性が腰につける飾りと考えられている。
 
中津でこの飾りをつけていた人物、これも春成氏によると、壮年男性だったようだ。しかしこの人物の抜歯は、上顎の両側犬歯を抜いただけであったので、春成氏の推定では、この人物、当時の社会で認められるような結婚はしてなかったということのようだ

雲津と中津の人骨達は、男女とも、こうした装飾品の共通と共に、複雑な抜歯の仕方でも共通性が強いことは、春成氏が指摘しているところである。これらは共に縄文時代も、晩期とされる時代である。

中津貝塚といえば、代表的な縄文後期も前半の中津式土器を出土する遺跡のため、人骨も縄文後期の時代を思い浮かべるが、そこには縄文晩期にいたっても人々の生活があり、中津と雲津の貝塚人はこの時期に、互いが無縁でない関係だったことを、装飾品や抜歯風習が物語っていたのである。

とはいえ先の物語のような、具体的に互いが同時代に生きた、兄弟・姉妹だったとか結婚相手だとか、こうしたお話になるのには、まだまだ手続きは足りないのであるが。

抜歯の風習については、以前「(8)節目の記念」でも触れたので繰り返さないが、現代でも、なおこうした習慣を持つ社会もあるようだ。ただわが国では主に、縄文時代の終り近い頃から、弥生時代の初め頃まで行われていた習俗である。

中津の人骨のように、多数の歯を抜いた人物は、成人のときの抜歯以来、長い人生の中で、結婚なども含め、多くの節目を過ごしてきた、年輪とも考えられる抜歯のようだ。

ところがこの人物の年齢・性別に関しての報告は、特にはない。ただわが国での抜歯について、詳細な検討を行い、そこから当時の家族関係・婚姻関係などを分析し、多くの論文を発表した春成秀爾氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)は、直接この人骨も検討されており、その結果を、同氏から教えていただいた。ここに載せた抜歯人骨の写真も、同氏からのご提供である。中津のこの人物、熟年の女性だったようだ。これは、二枚貝サルボウ製の貝輪を着けていたことからも女性と推定されたこと、また多くの抜歯から、若くして死亡したのではないだろうとの推測と矛盾しない。

(26) 中津貝塚人と津雲貝塚人

この話は前回「(25)中津貝塚の耳飾」の続編ともいえる。先の話では半世紀以上も昔、新聞社の記者さんが、中津遺跡発見の貝塚人が付けていた耳飾から、この中津貝塚人と津雲貝塚人との関係を、せっかくロマンたっぷりに描いてくれた物語をぶち壊してしまったが、実はこの中津貝塚人と津雲貝塚人との間には、かなりな接点があるのは事実である。

中津で耳飾を付けていた人骨については、先回も述べたように、報告(鎌木義昌「縄文遺跡における埋葬施設の一例」『石器時代 bP』1955.4)があるが、その中でこの人骨には抜歯のあることも指摘されている。上顎では多少不正確だが両側の犬歯と第一小臼歯の計4本が、下顎ではいわゆる前歯という切歯4本に両側犬歯で計6本、と言うようにかなりな数の抜歯がおこなわれていたのである。写真(右)参照