倉敷市広江・浜遺跡出土の製塩土器片と器形の分かった僅かな復原品。これらの土器片文様が57話の拓影
  倉敷市広江・浜遺跡
大量の製塩土器片や焼土・灰などの出土状況

濃くなった塩水は集合しながら、炉でこれもちょっと熱を掛けることで純白の塩の出来上がりとなる。藻を媒体とすると、どうしても色が付くようだ。

中部瀬戸内以外の地域では、土器の高台部分を長くしたり、尖った形にしてくる。この形から見て、他地域での土器製塩法は伝統のままだったようだ。
 この「よもやまばなし」の57で話題にした製塩土器の口縁部の文様も、こうした当地のまるで独占的な技術革新の中で出現した事なのである。他地域の研究者が知らなくても、当たり前と言う事になる。

土器を蒸発用具にする発想は、誰でも当たり前に考え付きそうだが、それなら現代の研究者も気付いて良い筈である。何時の時代も、一度出来上がった常識や習慣からは中々抜けられないようだ。

新製作法への着想には、他国で天日製塩をしていた人達からのヒントがあったのか、地元民の体験からの発想か、そこは知りたいところである。

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製塩土器の三角底から丸底への変身、これこそが技術革新の証明と思う。

今でも古代に土器製塩では藻を媒体にして、濃い塩水を得るものと思い込まれているようだが、この瀬戸内の製塩遺跡の状況で見る限り、先に見たように丸底土器である限り、極めて不合理な形である。底の平たい浅い大きな容器も、平気で製作できる技術は、既に当時の人は持っている時代なのである。小さい器形よりはるかに合理的な形の、土器による製塩用大釜製作が出来ないほど、私たちの祖先は馬鹿ではない。

もっとも晴天が多いとされる瀬戸内海中部の、広い砂浜は海水蒸発に最も適している。だからこそ後に砂浜利用の塩田が発達する地域となるのである。この自然の蒸発力をいかにしたら有効に使えるか、この工夫が生んだ技術革新が、丸底ボール形土器の誕生である。

土器は火にかけるだけのものではない。海水を入れて灼熱の砂浜に置くと、その蒸発は目覚しいものがある。大量の土器に海水をいれ、海岸に並べるだけで、手間隙掛けて作る藻垂れの濃い塩水と同じものが、数日で得られることの発見である。土器の底は三角では砂の上では安定しにくい。丸底ならちょっと力をいれて据えれば、そのまま安定する。これこそが合理的な形なのである。

海岸には、製塩に使用したと思われる炉痕も発見されるようになってくるが、長方形に平たい自然石を敷いただけだったり、平坦に焼け面があり、周辺に低い土手を廻らしただけの炉である。決して丸底が使い便利の良い構造の炉とはいえない。

にもかかわらず、この種の土器が用いられた遺跡地は、まさに海岸、ときには波に洗われているような地点であって、廃棄された土器片の量は膨大、焦土や灰混じりとはいえ土器片ばかりの層が数十センチも重なっている所などは珍しくなくなるのである。こうした遺跡の状況は、まるで工業廃棄物の堆積地ともいえそうだ。

その間、古墳時代になっても、深い鉢か椀形の底へ、猪口を伏せたような、まるで蛸の吸盤というかラッパの口と言うべきか、いわば三角形型の台付き土器が、製塩土器として使われている。そのため製塩遺跡からは、この蛸の吸盤形品ばかりが、まとまって出土するのである。遺跡の数は増えては行くが、塩の生産方法には、弥生時代から大きな変化は無かったものと思う。ただ遺跡がある地点は、海岸に接したところが中心になってきた。
 
 ところがその後、古墳時代も後半になると、濃い海水を入れて煮るには、むしろ不向きな形とも言える丸底のやや深いボール状土器が、大量に使われるようになる。土器製塩を始めて、長い時間が経ったと言うのに、昔より不便になったと言うのか・・・・

(60)底は丸か三角か

 いま日常使っている茶碗や湯飲みの底が丸かったら、一体どうなるか?毎日食事時に不便な思いをするだろう。簡単には置く事が出来ないのだから。大体そのような不合理な形のものは誰も使わない。

 先回で問題にしたのは、わが国でも瀬戸内海地域で2千年ばかり前の、製塩土器のことであった。この土器は底にしっかりした高台・・・言わば裾が拡がった、横から見れば三角形型の脚が付き、置くのには安定している。炉辺か焚き火の近くに置いても、地面より高い位置になる底や胴部には、熱は効率よく当るであろう。

 これが丸底だったら,普通の地面に置くのは大変と思う。支えを作るか、地面を窪ませねばなるまい。瀬戸内地域で、丸底の製塩土器が大量に使用されだすのは、先の弥生時代に当地方ではじめて製塩土器が現れてから、5〜600年も経っての事である。