ところで考古館の主要な調査の中でも説明しているが、倉敷市浅原にある安養寺の裏山には、平安時代後期の経塚群があった。経塚とは写経した経典を埋納したものだが、こうした習俗が普及したのは、仏教思想の末法思想(釈迦入滅後、世は正法・像法・末法・滅法とたどり、末法時には教理も失われるが、56億7000万年後の弥勒出世の時、経典などが湧出するとの思想)により、経典を埋納するというのが出発だったようだ。しかし末法といっても期間は長く、わが国で平安末期からこうした習俗が広がるのは、古い秩序の崩壊期を末法の世と感ずる人々にとって、浄土願望・現世利益等への願いを込めた作善行為として流行したようである。
調査を行った安養寺の第三経塚は、不朽の瓦に文字を書いた、もっとも丁重な写経だったはずだが、焼成が悪いため粘土塊に化していた。現代の手抜き工事と同じことか。ともかくそこには十種以上の経典が含まれていたが、この中に般若心経が6枚以上含まれていたのである。
一面に17字10行書かれた心経の経文は、一枚の瓦の表裏で完結する。6枚以上と言うことは、同文のものが6部以上収められたということである。他の経典は1部のみである。多くの経典は専門職の僧侶による写経だったと思われるが、経塚造営にはかなりな人々が合力することもあり、般若心経はこうした人々の写経だったとも思われる。保存の悪い瓦経だったが、末尾が判読できたのは3部、他の部分の文字は全く同文だったのに、末尾に書かれた経名が、2部は「摩訶般若波羅蜜多心経」、1部が「般若心経」であった。手本の経典が違っていたのだろうか。埋納されていた経典は、900余年も昔のものだが、いずれも今と全く同じと言ってよい。
今回の写真は、一見したのでは何だか分からないものだが、これは粘土塊化した瓦経の埋納状況である。板状の瓦を二段に立て並べた断面だが、上段右方に色の違う一枚があるだろう。これは心経の一枚だった。瓦まで別のところで作られたものが、加えられていたものだろう。
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(9)写 経
いま写経が流行っているという。多くの人が何経を写経しているのか知らないが、現代も「般若心経」に人気があるようだ。この経典のフルネームは「間か般若腹見た心経」・・・失礼これはワープロで出てきた文字・・・本名は「摩訶般若波羅蜜多心経」。