1・2世代前の人たちが神社詣での時、小さい布袋に米を入れて持参し、賽銭箱に米を撒き入れていたことは普通にあった。ともかく賽銭の語源のことは、よく知らないが、今では賽銭は、神仏へ個人からの供物・・・・願い事がかなったからで無く、願い事のためにということ・・ただ習慣という人も多いのでは・・・

その賽銭の泥棒は、時に聞く話であるが、何も正月早々に罰当たりな泥棒の話でもないだろうと、気分を害されるかもしれない・・・・が、初詣客をテレビで見ていたら、旧年の10月頃の倉敷考古館周辺での話題を思い出したのである。

左上の写真、今回のタイトルとなじまぬ風景、怪訝に思われた方も多いと思う。実はこれは昨年、2010年の103日考古館の三階小窓から、東方の向山という小丘を撮ったもの。言うならば「また火事だ!!!」と・・・

この時、地元では稲荷社と呼んでいた50uばかりの社が全焼したのである。ところが同月15日には、考古館の北側すぐ近くにある鶴形山の、北面した側、考古館から言えばすぐ北の山裏に当たる位置にある、北向日限地蔵の小堂が全焼した。考古館からは、先の火災地よりはるかに近いが、夜のことだった。

その他の神社周辺でも、不審火が続いていたようだ。その月の終わり頃、ある神社で賽銭2000円盗んで無職18才の少年が捕まった。この少年が、先の連続火災の放火犯でもあったと、報じられた。賽銭がろくに無く、腹立ち紛れに放火したらしいとか。

18才で無職ということは、高校には行ってない子ということになる。行けなかったのか、行かなかったのか、それとも中退したのか・・・・詮索することでもないが、なにがこの子を賽銭泥棒にしたのか・・・しかも平気で放火までする子にしたのか・・・

ところで、考古館の職員にとっては、専門外のことではあるが、一緒に勉強ということで、月に一度、20人ばかりの女性有志と、『日本書紀』にはじまり、今では『続日本紀』の光仁紀を読んでいる。この会は始まってから、すでに30年にもなるだろうか。僅かずつの入れ替わりや、幾人かの方は世を去られてはいるが、最初からのメンバーも健在。なんともカタツムリ以上の遅速ではあるが・・・専門外だけに不十分な理解とは思うが、面白い発見も多い・・・が片端から忘れたことも多いだろう。

ところで、つい昨年の12月に読んだところに、次のような内容があった。以下は少々意訳したものである。

「宝亀4(773)年9月20日 丹波国天田郡(福知山)の奄我(あむが)社に盗人が入り、供え祭ったものを食べて、社の中で死んだ。そこで十丈ばかり(30mばかり)去って更に社を建てた。」

とある。これも賽銭泥棒と同じようなもの。ただこちらは火をつけるのでなく、自分が死んでしまった。奈良の都も終わり近い頃のことである。国家の正史に書かれた事件である。このようなことが大変珍しかったのだろうか。当時は大変な時代だったようなのだが・・・・

この記事の前後を見ると、各地で飢饉が起こっている。調(国に収める税としての物品)などを都まで運んだ人々は、帰りの食料も無く、飢えて途中で餓死もする。一方では、地方の正倉(租税を入れた米蔵、地方の基本財産保管所)は神火で焼けたとの報告が記されている。しかしこの神火は、地方の役人が、正倉の資材で私腹を肥やし、倉を空にし、火をつけて横領の痕跡をかくしたものらしい。

その頃、熾烈で血塗られた政争の後、やっと生き延びていて位についた光仁天皇は、長年連れ添った妻、皇后でもあった井上内親王(聖武天皇の娘、彼女は先の称徳女帝とは母違いの姉妹)と、その間に出来ていた息子、皇太子にも定めていた他戸王を、ともに廃して、他所に監禁してしまう。2年ばかり後には、2人は共に死んでいる。こうした政局も暗雲の渦巻いている時期である。

神社の供え物を飢えた人が盗み食いしても、おかしくない時代。古くなった食料で、中毒死しても不思議は無いだろう。しかしこの神社では、社まで建て替えている・・・しかも正史にまで記録されて・・・何か表に出しては悪いことがあったのでは・・・と現代人は勘ぐりたくなる・・・供物泥棒など、当時では普通の社会現象だったかもしれないのだが・・・

倉敷の賽銭泥棒の放火少年・・・もしこの事実を後世の人が知ったら・・・・現代の世情をどのように理解するか・・・8世紀末以上に、大変な時代・・・今の世情は確かにそうだろう・・・・・

 正月の初詣を、座ってテレビで見ながら、1240年近くも昔と、現代の賽銭泥棒を比べているのも、なんとも因果な時代である。

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倉敷考古館三階窓より、向山の稲荷社の火事を見る

96)賽銭泥棒

 除夜の鐘が終わると共に、神社仏閣への初詣スタートが切られる、例年のテレビが追う新春の風景。そこでは必ず賽銭がとぶ風景も。初詣用の特別大きな賽銭入場が設置されるところさえある。

 「賽」の字は、本来は神恩に感謝する意で、お礼参り、その時の捧げ物が、賽銭のルーツでもあったようだ。賽銭という言葉は漢語にはなく、以前は散米したものが、銭に替わり、散銭が賽銭になったとも・・・