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 多根良尾の父:三城實治(ミキジツジ・サネハル)の生い立ち
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 實治の放浪生活
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 陶山家での居候生活
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 陶山家のこと
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 多根家への縁組
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 仙養坊という三城家初代
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 佐白(サジロ)という村
資料提供: 多根 伸彦 氏
1 多根良尾の父:三城實治(ミキジツジ・サネハル)の生い立ち
 良尾の祖父、三城家十二代目重太(ジュウタ 1814から1882.68歳)の妻タキ(1826〜1858.32歳)は、十三代目の勝巳(?〜1917)を産み、タマ、シマ、イサを出産した後、若死しました。数年後、重太は後妻としてイマ(1839〜1885.46歳)を佐伯家(広島県府中市鵜飼町112の古い代宮家<ヨコヤ>)から迎えました。その初めての息子が實治(1878〜1942.75歳)でした。

 實治には、力太(仙養村赤木家へ養子)、かめ(1874〜1957.83歳)、春尾(3歳没)の3兄弟が生まれました。かめはその後、佐伯家の親戚でもあり、従姉妹でもある川隅家に嫁ぎました。實治は異母兄弟7人の中で育ちましたが、先々兄弟同志でトラブルを起こさぬよう三城家を出ました。明治18年、1885年の18歳頃かと思われます。その時、異母兄の勝巳が36歳、勝巳の妻クマが28歳、その長女トク(後に三城家第十四代目)が8歳の時でありました。

 恵まれない経済状態の中で複雑な家庭からも脱したかったのでしょう。
2 實治の放浪生活
 實治は一年半ぐらいの放浪の旅をしたようです。どこを経由したかは記録も言い伝えもないのでわかりません。(どなたかその種の話をご存知の方は教えて下さい。)
 その旅の途中で天然痘の病にかかり、顔はあばたでブツブツ、お月さまの表面のようにたくさんのクレーターができ、後日、「ジャギ(邪鬼?)の三城さん」というニックネームで皆から呼ばれたそうです。

 
広島県神石郡油木町にある三城家から遠く中国山脈を越え、点々と歩き回ってたどり着いた所が島根県仁多郡奥出雲町三成(ミナリ)でした。ご縁があったのが八幡宮の代宮家の陶山(スヤマ)という宮司の家でした。

 陶山家四代目の英雄氏(1930,4,29 生)の話によれば、
「ある晩、風采のあがらない小柄な男がその代宮家に泊めて欲しいと言ったので、泊めてやることにした。翌日夜があけて立ち去ろうとしたが、余りにも彼のいでたちが汚れていたのを、陶山家初代
峯之丞(ミネノジョウ)氏の妻トミノさんが思い余って、『もう一晩泊まりなさい。その間にあなたの着物を洗濯してあげましょう。』と引き止めた。」との事。

 その着物というのは白の木綿で、ちょうど全国行脚の修行者の身なりをしていました。彼はトミノさんの申し出に素直に応じました。彼はもう一晩泊めてもらう事になったので、お礼に何か手伝いができないかと思いました。そんな時、峯之丞氏がさかんに八幡宮の神札を一枚一枚筆で書いているのを見ました。

 陶山家はその直前(明治十年代)、家庭内の事情が発端となって代々の社家である佐々木家から分派し、その上、佐々木家が火事で全焼したため神用の諸具は何も引き継ぐことができず、全く不便な生活だったそうです。實治は「近くに鍛冶屋はないか?」と聞き、当時こうもり傘の骨で鉄で出来ていたものを一本探し出し、それをハンマーで平たくたたいて小刀を作りました。次に、硬い木を切り刻んで神札の文字判をつくり上げました。一枚一枚書く代わりにスタンプのように押すだけで 神札が何枚でも能率良く出来上がるようになりました。

 それがもとで放浪生活に終止符が打たれ、陶山家で厄介になることになりました。
3 陶山家での居候生活
 實治は、とても器用で便利な男でした。身体こそ極めて小柄で痩せており、顔はアバタ面という一見風采のない人物でしたが、実によく働きました。困った人がいればすぐに手伝いに出向き、特にハンコを彫るのが得意で、近所の人たちが続々と頼みにきたそうです。

 また、實治は「易(エキ)」をみるのが得意だったので、彼に人生相談するために遠くから人がしょっちゅうやって来ていたようです。八幡宮や雨川の若宮神社(現在は大歳神社に合祀)がいつの間にか皆の人気の場となり、みるみる内にお供え物などで神社はうるおったそうです。

 他にも、時計商と修理、方位見(家の見取り図を作り良し悪しを判断する)、命名、針灸、製茶、屏風作り、畳の張替え、木版や横笛も作っていました(現在も神社に保管されています)。書の達人、鼓の達人でもあったそうです。何でも出来る器用さが、村では有名でした。しかしながら、器用すぎて一人一芸の金もうけにならず、決して裕福ではありませんでした。
4 陶山家のこと
 元々この八幡宮は、「佐々木」という姓の方が宮司をしておりましたが、子供が4人とも女性だけだったため、尾原の陶山代宮家から峯之丞氏を入り婿に迎え、佐々木家の後を引き継ぐ事になりました。その後事情があり、佐々木代宮家から分派して、陶山代宮家に替わり、その初代目が峯之丞氏であり、その妻がトミノさんでした。 彼女は非常によく出来た人で、世話好きで明るく、他人の気持ちを察することには群を抜いていました。峯之丞氏は44歳でなくなりましたが、トミノさんは68歳まで長生きをされました。彼らには何人かの子供がありましたが、その長男 繁(シゲル)氏が陶山家二代目となりました。ところが繁氏には子供が無かったので、繁氏の末弟 生男(イクオ)氏が三代目を引き継ぎました。生男氏は平成元年10月29日(日)午前10時頃、94歳で大往生されましたが、生男氏は實治と陶山家との係わりについて、最も良く知る人物でした。
5 多根家への縁組
 仁多町の隣り村に亀嵩(カメダケ)という所があります。松本清張の「砂の器」の舞台となった所です。そこに郡村(コオリムラ)という名の村がありました。その村には「多根」という姓の代宮家があり、實治がそこへ婿入りしてはどうかという話が持ち上がりました。

 陶山峯之丞氏は、三城實治の親代わりとして多根家に紹介しようとしましたが、見所はあってもどこの素性の者かわからない。そこで、多根家へ説明するため、ついに實治の実家「三城家」がある
広島県神石郡油木町まで出向くことにしました。油木町へ訪問し、聞いてみると、三城家は代々鶴亀山八幡神社(下社)を祀る格式の高い、古い家系とわかりました。

 また明治になってからの社家は「平民」扱いであったため、代々の社家(氏族扱い)である「多根」の姓を引き継ぎ、神主を職業としたものと思われます。
6 仙養坊という三城家初代
 「三城家」は寛永年間(1629〜1639)に宗信に住した奥名左衛門太夫が初代とされ、仙養坊という名でほら貝を吹くのが上手な山伏として、その地方の伝説の人物となっています。

 彼の吹くほら貝は、白米五升が入るという大きなもので、その音は十余里四方にこだましたと伝えられています。やはり小柄で、その身体に似合わず自分の背丈ほどの太刀を腰にさしていましたが、余りにも鞘が長いので先端に滑車を付けて往来していたと云われています。

 このほら貝の名人という噂が、時の福山藩主
水野勝成公の耳に入るところとなりました。勝成公は彼を招き、家来になるよう勧めましたが、仙養坊は 「修業の身である自分としては、ほら貝が戦いのために用いられたくない」 と断ったそうです。それでも勝成公は再度福禄するように迫りましたが、仙養坊はこれを固く辞退いたしました。勝成公は家来に命じ、「生かし置く事 世の妨げとなる」 として刺客を差し向けました。

 仙養坊は一生懸命逃れ、やっとの思いで油木の村にたどり着きましたが、刺客の手にかかり、互いに後世へ怨念を残す殺傷は避けたいと思いました。そこで井戸の中へ隠れ、そこで最後を遂げる道を選びました。そして、ついに発見され、刺客は石を投下し、仙養坊は生き埋めにあい最後を迎えました。延宝6年(1678年)5月9日)の出来事でありました。

 『時の権力に屈せず、自分の生き方を曲げなかった』仙養坊を地域の人々は称え、現在もそのすぐ南部の地方を仙養ヶ原と呼んでいます。
       参考:『仙養物語』田原谷確市(編集人)、仙養物語刊行推進会(発行所)
7 佐白(サジロ)という村

 陶山峯之丞・トミノ夫妻が親代わりとなって、多根家との縁組が成立しました。石原社家の口伝によれば、多根ヒサノ(1867〜1953.86歳)と結婚した實治は、同村高田の代宮家 多根和泉の勢力に押されたため、当時の仁多郡神職頭であった石原濱路(石原道夫宮司の曽祖父 1850,9,1〜1926,7,9.76歳)の仲介により郡村を後にし、代宮家がなかった布勢村大字佐白(フセムラ オオアザ サジロ)へ移り、今の三城厚生寮のところにあった平屋の住宅を取得し、新生活をスタートさせました。

 三成と佐白とは約6キロ離れていましたが、その後も實治はたびたび陶山家を訪れました。訪れる度に陶山家へ人が集まりました。「實っつあんが戻っている」と言って皆が易をみてもらうため集合していたのです。人気者の實っつぁんでしたが、よそ者なので世話をする専属の神社はありませんでした。本来の宮司ではなく、頼まれれば出かけてお祓い、祈祷の出前をするアルバイターでした。

 佐白の人達は昔から地元の荒神さんを大切にしていました。「
三寳荒神」として、天照大神(アマテラスオオミカミ)豊受大神(トヨウケオオカミ)須佐之男命(スサノオノミコト) が祀られています。当初ちょっとした祠(ほこら)があったそうですが、明治43年夏の台風で吹き飛んでしまいました。その後も毎年、お祭りだけは欠かさずしていましたが、この荒神さんには昔から、無断で手を掛けて木を切ったり、土手の草を刈ると祟(タタリ)があるという言い伝えがありました。人々はそういう事もあって、一切手を出すことはありませんでした。

 その荒れ果てた荒神さんを何とか元のようにしたいと願っていたのが、實治の三男である
多根良尾でした。良尾は、19歳の時(1924年)、東洋紡績に集団就職するため、佐白を後にして兵庫県姫路市へ旅立つことになりました。その際、この「三寳荒神」に願を掛け、それが少年の心のエネルギーになったという物語は「(宗)志學荒神社」の石碑に刻んである通りです。

 良尾は、もともと父親に似て手先が器用で、仕事の合間に従業員の持ってくる柱時計や目覚まし時計・腕時計、自転車の修理等を請け負っていました。瞬く間にその噂が広がり、仕事以上に忙しくなり、商売としてやっていけると確信したのです。 そして、

  1930年10月 姫路市に
正確堂時計店 を創業し、

  1950年 1月 には名称に父 實治の実家、「
三城」の名前を付け
                      
(株)三城時計店 (時計、貴金属、及び 修繕) を設立、

  1960年 3月 には本社を姫路市直養町に移転し、社名を
(株)メガネの三城 に改め、
                      眼鏡専門店の小売店に移行し現在に至っています。
 

 大神のご加護を一身に受け、世界を翔る「メガネの三城」を造りあげ、ほぼ成功を納めたと自ら実感した彼は、1985年 8月 8日(多根良尾81歳)、解願の篤志をもって復元建立の話をまとめ、同年 8月12日地鎮祭、同年11月 5日上棟祭の斎行に及びました。

しかし、良尾は翌年 8月15日、惜しむらくは志半ばにして幽冥界に旅立つ身となりました。その後は、多根遺族会(代表
多根弘師:写真左 )がこの事業を継承することになり、1986年11月 2日、錦秋の中、竣工遷座祭を斎行いたしました。
                                             


 そして、佐白の地に昔のにぎわいを復活させたいと願った良尾の思いを汲んでいただき、
1987年、(財)奥出雲多根自然博物館 が建設されるに至りました。これも地元の方々のご協力なしには実現出来なかったのは言うまでもありません。また、多根家にとっては
三城家佐伯家陶山家 あっての今と言えるでしょう。


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