磯のページ スバラマツ オオクボ イワグチ シラサキ チョンギーインナクラ ヤオ マツチ
東の浜から祝島を右回り(時計回り)に回って、書いていきます。東方(ひがしがた)の生まれなので、東の磯が主になります。
ナカバエ
子供時代から、おらは祝島の磯に相当恩恵をこうむっている。
小学校2年生の頃、初めてタコを捕ったのはナカバエというところで、人家に近い磯である。その時は多分ヨボシに釣りに行っての帰りだったろう。時期は5月頃だろう。服装は半ズボンとランニングシャツ。ナカバエまで帰ってくると、バシャバシャと音がするので見ると、カニが大きい石の下に入っていった。なんとその後をタコが追いかけてきて、カニが逃げ込んだアナの前の石に座ったのである。それを見たおらは急いで海に入り、タコと格闘して、めでたく獲得したのである。あまり大きくはなかったけど、腕に巻き付いたりしてたまげながら慌てながらの収穫で、意気揚々と持ち帰った記憶がある。タコはカニが大好物であるという印象も強く残った。
ナカバエは東の波止を越えて、最初に広い瀬があるあたりである。
ヨボシ、クドレ、トビイシ
ヨボシは島の東方の人に一番なじみが深い磯ではなかろうか。ちょっと遠出をする感覚で、トビイシがあった。トビイシは前トビイシと後ろトビイシに分けて言っていた。ヨボシもトビイシも、子供時代には、春から夏にかけて、アブラメやゴチを釣りに来た。ゴチにはクロゴチとモゴチがいた。クロゴチは石の間や瀬の陰に、モゴチは藻葉の中にいて、クロゴチは黒く、モゴチは茶色。
夏には大潮の時、潜りに来てサザイや貝を採っては、瀬の間で焼いて食べていた。大体焼く場所は決まっていた。燃料は流木や流れ着いた竹などで、不足はなかった。
中学校時代、部活動に入っていなかったので、夏休みの大潮の時には、台風の時以外は磯で過ごした。その時の仲間は近所の小学生だった。村中のさだぼう、立花のケンボウが常連だった。カナツキは禁止だったがこっそり使っていた。岩の割れ目にはネバルがたくさんいて、一本のカナツキで、2匹重なって突けることもあった。潜るときの服装は猿股と裸足だった。行きも帰りもそのままで、ゴム草履をはいていた。
ヨボシの瀬はひろくて、貝類も魚も多いが、近いので人も行きやすい。少し遠出をして、トビイシまで行くという気分だった。開放感はトビイシの方があった。
ヨボシからトビイシまでの浜が、クドレである。丸い石がゴロゴロと、打ち寄せる波によって小さい丘を作っている。こんな浜は珍しいのではなかろうか。
クドレを過ぎて、瀬をこえるとウノクソという瀬がある。海鵜がクソをして瀬の上が白く染まっているのでその名が付いたのだろう。ウノクソのすぐ向こうが前トビイシである。
前トビイシの沖にある大きめの瀬がウシドアという。よくウシドアまでいってサザイを採って、猿股にまくり込んで、ぢ(陸)まで泳いで帰って焼いて食べていたのである。途中でサザイを捲り込んでいた猿股が脱げて、底に沈んだりしたこともあった。
スバラマツ
スバラマツは後ろトビイシの向こうの瀬があるあたりである。
その瀬の上の方の山にモト君の家のビワ畑があった。中学生の頃、6月の始めには、山道を通り、モト君家のビワ畑でビワをランニングシャツの腹の部分に入れて磯に下りて、ゴチやらアブラメ(クジメ)やらを釣っていた。時々、モト君のお母さんのかまどを借りて焼いて、味噌に付けて弁当のおかずにしていた。飯を持っていくこともたまにあったのだ。
オオクボ
スバラマツの瀬を越えたところがオオクボである。
オオクボは浜である。所々に瀬があり、少し沖に出ると砂地である。台風が南海上にあるときは、オオクボにはアビキ(うねり)が寄せる。浜のおかがわに、穴の空いた瀬がある。隠れ家にしたいような穴だったが、昔「オンミーサア」という人が実際隠れていたので「オンミーサアうど」という話だ。
浪人中に、アビキのあるとき潜みに来て、サザイなどを焼いて食べた。その時の写真を見ると、みんな真っ黒で、「祝島原人モグリマンネン」みたいである。タッツー、ヒサボウ、ケンボー、トシボーなど、今はみんなおっさんになっているだろう。
イワグチ
イワグチは海まで岩が突き出ていて瀬になっている。その岩の割れ目が浸食されて穴が空いている。トンネルと言うほど長くはないが、イワグチのトンネルと読んでいた。そのトンネルの中に石があり、石の間のウゴ(穴)でクロゴチの大きいのが行くたびに釣れていた。少し満ちていると、手足の短いおらには、岩にへばりついてそこまで行くのが至難の業だった。
イワグチへ行くのは、山道を通って、マルヤやモリタの梅畑を下りていくのだった。大潮では夕方近くなると潮が引いているので磯を歩いて帰っていた。
シラサキ
イワグチのトンネルを抜けると、そこはシラサキだった。平さんの石垣があるツツミ(ため池)の横を磯まで下りる道があった。その道を下りたところがシラサキの浜の中頃あたりである。
シラサキの沖に、10年くらい前にアカイカを掛けに行った。シラサキではあまり釣りをした覚えがないのだが、底が見えるあたりで、ホゴが釣れたことがある。流したら釣れるだろう。
チョンギー(オキナ)・インナクラ
ソウズイの下の瀬がチョンギー(キリギリス)に似ているので、そこら辺をチョンギーと呼んでいる。キリギリスの瀬は爺さん(翁)にも似ているので、オキナとも言う。大人はオキナといい、おらが子どもの時はチョンギーといっていた。チョンギーでは上から崩れてきた大きい石があって、そのウゴでクロゴチがよく釣れていた。中学生の頃にはその石の下に潜るとアワビなどがよくいた。
チョンギーの瀬を越えるとインナクラ側に出る。大潮の干潮時にしか渡れないが、少し満ちているときは、無理して瀬を越えれば渡れていた。その瀬越は結構危険を感じる行動だった。落ちたら死んでしまいそうな気がしながら渡っていた。命がけでゴチ釣りに行っていたわけで、少し分別に欠けていたかも知れない。
インナクラは最近でもよく行く場所である。今でもゴチやホゴや時々アブラメが釣れる。沖の方にほとんど島影が見えず、ちょこっと南の島の無人島感覚を味わったりする場所である。インナクラの浜の外れにオオトオに上がる道がある。今でも通れるそうだが、おらはまだ、上がったことがない。
ヤオ
センビキダケの下がヤオ(ヤオー)である。ここでは磯で釣った経験がないが、ここの沖では秋にヤズがよく釣れる。
ヤオあたりが人家の真裏くらいになるだろう。豊後水道からの潮がここら辺にやって来て、祝島を取り巻いて流れていくのだろう。
マツチ
ヤオの瀬を越えたら(泳がないと越えられない)、マツチである。浜になり、海の中にタテイワという塔のような瀬が立っている。ヒラドアという瀬もある。ドアというのはどんな意味があるのだろうか。ウシドアとヒラドア(後ろトビイシの沖)がある。
コジマ
祝島のしっぽの部分にある小さい島のあたり。横から見たらライオンが座っているように見える。松の木も生えているちゃんとした島である。いくら干潮でも、祝島から歩いては行けない。高校生の頃に潜りに来たが、よく石の下にイシダイ(クロクチ)がいた。
最近も夏に時々泳ぎに行く。中学校の野外活動では、子供達と釣りに数回来た。クロゴチやホゴなどが結構釣れる。
村上水軍の見張り場だったという所がここの上の方にあったそうである。門柱に使っていたというような長い石が海の中にあるそうであるが、おらは見たことがない。紋様のある石も浜にあったそうだが、探してみたが、今は埋もれているのか見つからない。
シトオズ
以前はここまで道があったようである。浜から山に上がる道があったという。大きい櫻の木が浜近くにあったというが、今はなくなっている。かなり大きいのはある。
シトウズのはまで、2001年に國弘秀人君が、クサフグの産卵を写真に撮った。
ミウラ
神舞が始まったゆかりの浜である。裏の湾の中央で、波止もある。春にはボラの群が入ってくる。南風が吹き下ろす。北の波は打ち寄せる。一番大きな谷が流れ下りている。海岸では唯一の川と行ってもいいような小川になっている。
子供の頃は人家からの海岸の道はつながっていなかった。ミウラでの釣りはほとんど体験していない。
マツサキ
ミウラの湾から人家側に寄ったところ。石がゴロゴロしている。ゴチやらネバルが多そうである。子供時代に釣ったことはない。中学時代に、自転車で道から海に落ちたことがある。自転車も後から落ちてきた。
トオリヤ
何かいわれのありそうな名前である。厳密に言うとトオリヤではないだろうが、コヤマ側に、岩の中に長いトンネルのような浸食で出来た穴があった。今は埋められている。一本長い根が道の上をまたいでいるのがあった。20年以上前に枯れて今は跡形もない。
15年くらい前に「タレミズ」の写真を撮ろうとして、道から海に落ちたことがある。県道になる前の話である。トオリヤあたりでは、よくゴチが釣れていたようである。
ちゃんとした道はトオリヤまではなかったと思う。中学時代にはミウラまで出来ていた。
コヤマ
人家から2km位の所で、アサリが少しいる。出っ張った瀬があるが、ミウラ側に浜がある。小学生時代に、ここに出てくる谷に亀がいて、友達がとって大きな瓶に入れて、飼っていたことがある。石の間でドンジーを釣ったことがある。
ナガイソ
子供時代は、人家から西の波止の向こうのモチドを越えてからをナガイソという感覚だった。長い石の浜が続いていた。ナガイソで釣った覚えがない。