ここは浅草寺近くにある商家の別宅。
しかし、事情があって今は貸し家になっている。
中は小さいながらも小綺麗な作りである。
「はい、今日はこれまでにしましょう。」
「ありがとうございました。」
「ところで、お涼さん。 今日は是非お付き合いいただけませんか?
手前の顔見知りから気の利いた料理屋を紹介されたものですから
是非お師匠におもてなしをしたいのですが。」
「はい、ありがとうございます。 ですが幸兵衛さん。
今日はあいにく都合が悪いので またにして下さいませ。」
「お涼さんはいつもそれじゃ。 では今度はきっとですよ。」
呉服問屋の池田屋幸兵衛が恨み顔に去っていくと
お涼はやれやれと顔をしかめて「嫌なすけべ爺。」
と言って持っていた三味線を放り出した。
お涼は長唄の師匠である。
半年ぐらい前からここに住みついて近くの大店の主を相手に稽古をつけているのである。
年の頃は二十二ぐらいであろうか、顔立ちのはっきりした色白で
ほっそりとした体つきのいい女である。
大店の主がこぞってやってくるのは無理もない。
「ああ、今夜は満月だ。 満月の夜はどうしても血が騒ぐ、
いったいあたしの体はどうなっちまっているんだろう。」
じっとしていられなくなったお涼は、
着替えを済ますと家の戸締まりをして夕闇の中へ吸い込まれていった。
ここは江戸郊外の荒れ寺。最近ここに住みついた浪人が数名車座になって
徳利酒を回し飲みしている。
「このままにしてはおけねえぜ、風間さん。」
「そうだとも。このままじゃ雷神党の名がすたる。」
「小林の野郎はもういけないかもしれない。」
「そうだ、小林の仇をとらないでは済まさないぞ。」
浪人たちはこの世のあぶれ者であり食い詰めて
いつのまにかここに集まってきたものである。
中でもひとり腕が立つのが風間と呼ばれる浪人である。
この風間伊織が頭目となり「雷神党」などとたいそうな名を冠して
世直しを声高にしているが
その実体は近くの農家や商家を荒らし回っている徒党にすぎない。
このため奉行所もいささか手を焼いている状況である。
「風間さん、小林が今死んだぞ。」
「うむ、そうか。このままにはしておけんな。」
小林というのは二日前に町人をいたぶって
旗本の早乙女露詩之介に腕を切り落とされた浪人のことである。
出血がひどくてろくな手当もされなかったために死んだのである。
「それで小林を斬った武士の正体は知れたのか。」
「いま佐々木たちが町へ行って調べているところです。」
「かなり腕の立つ奴らしいな。」
「なに、みんなでかかれば簡単なことさ。」
「だからお前は無策だと言われるんだ。」
「何だとぉ。」
「こら、よさないか。俺に考えがある。 黙って飲んでいろ。」
風間伊織に睨まれた浪人は首を竦めて徳利酒を一気に煽った。
大名や大身旗本は常住する屋敷とは別に下屋敷を持っている。
これらの下屋敷は江戸郊外に建てられており大名が立ち寄ることなど滅多にない。
そのため風紀も乱れて中間部屋では博打が行われていた。
下屋敷の用人も鼻薬をかがされているので見て見ぬ振りをしている。
ここ大身旗本横田大学の下屋敷中間部屋では
今宵も賭場と化して良からぬ者たちが出入りしている。
荒くれどもにまじって町人がサイの出目に夢中になりカモにされている。
そんな中に女がひとり片肌脱いで壷振りをしている。
片膝たててあらわにされた肩から胸肌が上気して妖艶な姿である。
この女は壷振りお涼と呼ばれ、月夜の晩になるとこの賭場へ現れる。
ほっそりとした体つきのくせに口が悪く喧嘩っ早いので
荒くれ男どももちょっと手が出せない。
何にしろ元締めの中間頭のお気に入りで下にも置かない扱いである。
お涼が壷を振るときは大勢のカモが集まるので当然ではある。
この壷振りお涼はなんとあの長唄の師匠である。
これは一体どういうことか。
「さぁ、入ります。 どなた様もようござんすね。」
「さぁ、はったはったぁ〜」
「丁だ〜。」
「半だ〜。」
「丁半出そろいました。」
「二六の丁。」
「あ〜ぁ、だめだこりゃ。」
お涼が壷を置き汗を拭って中間頭の留蔵の酌を受けていると
ひとりの男がすり寄ってきて声をかけた。
「お涼さん、お久しぶりです。」
「あっ、お前さんは与助さんかい。」
「そうです。覚えていてくれましたか。」
「忘れたりはしないさ。」
「実は一昨日のことですが、お涼さんの仇を見かけましてね。」
「えっ、何だって一体どこで。」
「ま、お涼さんここでは何ですから。」
与助に誘われたお涼は下屋敷から出て近くの縄のれんをくぐった。
「さぁ、言っておくれ何処で見かけたんだい。」
「そう急ぎなさんな、まぁ一杯酌をしてもらってもいいんじゃないかな。」
「随分と大きな口をきくじゃないかい。」
「あっしもここまで落ちぶれちゃもう恐い者無しでさぁ。
ちょいと懐が寂しいもんで賭場で目を出そうと思ったところに
お涼さんを見かけたということでさぁ。」
「じゃぁ、佐助を見かけたというのは出任せかい。」
「いや、そうじゃねぇ。本当のことさ。」
「それではお言い。それは何処なんだい。」
「だから懐が寂しいって言ってるじゃねえか。」
「ふん、卑しい奴だね。それ、とっときな。」
「おっ、ありがてぇ。」
「佐助はおととい富岡八幡宮近くの 料亭泉屋から出てくるところを見かけた。
あいつがあんなところへ客になるはずがない。
きっと何かあの店に関係があるはずだ。」
「それで後をつけたのかい。」
「冗談いっちゃいけねぇ。 俺には関係のないことさ。
それに奴の後をつけるなんて馬鹿な真似ができるかい。」
「それじゃ、これまでだ。こいつは有り難く貰っておきますぜ。」
そういって与助は風をくらって居酒屋を飛び出していった。
お涼はどこか遠くを見るような目をしていつまでも天井の節穴を眺めていた。
「風流の 風が涼しく 月淡し」
日が暮れて秋風がそよぐ中を一人の風流な武士が脇差しを落とし
差しにして大股にゆったりと歩んでいる。
何処へ行くともなくただ単にこの季節を楽しむかのような足取りである。
「月を見る 月は我見る 十五の夜」
「ふむ、よしよし。」
この武士、早乙女露詩之介は徳川家譜代の幕臣旗本で二千石の大身。
前の将軍の剣術指南役を務めて御前試合においては百戦百勝の剣の達人。
いまは隠居の身で暇を持て余しては「退屈だ〜」と江戸市中を単身微行している。
「二本差し 二八に天の月を載せ」
「これ、先ほどから拙者のあとをつけておる者 姿を見せい。目障りじゃ。」
露詩之介の後をつけていた一人の武士が面目なさそうに姿を現した。
「お主は何者じゃ、拙者に害あってのことか。」
「いえ、滅相もございません。」
「殿様にお願いしたい義があってのことで御座います。
不躾なことなのでその機会を伺っていたまでのことで御座います。」
「左様か。では、ここで話を聞こう。」
そういって露詩之介は先に料亭泉屋へと入って行った。
後を付けていた武士も恐縮しながらこれに続いた。
離れに席を設けて酒を注文すると露詩之介から切り出した。
「そこもとは幕臣の者か。」
「はい、私は拝 一途と申す者で 書院番頭付き広義解釈人を務めています。」
「左様か、では何故に後を付けたのか。」
「はい、実は殿様を見込んでお願いしたいことがあります。
ですが、何分にも不躾なことではありますので 逡巡していました訳で御座います。」
拝 一途の実直な態度をみて露詩之介の疑念も晴れていった。
そうなると根っからの退屈の虫が騒ぎ出してなにやら面白くなってきた。
「あい分かった。ではその願いというのを話してみなさい。」
「ありがとう御座います。 実は私の親友に秋月大二郎という者がおりまして...」
「秋月大二郎...ふむ、聞いた名じゃ。」
「恐れ入ります。 秋月大二郎は小さな道場を構える剣客です。
この秋月が真剣試合を申し込まれまして その立会人に私が頼まれたのです。
ですが私は剣術がからきし駄目な口なので
是非とも早乙女様に立ち会っていただければと思いまして
そのお願いの機会を伺っていた次第です。」
「ふむ、なるほど。 して、その試合の相手というのは。」
「はい、無念流平山道場の日陰靄四郎殿です。」
「なに、平山道場。すると平山左内の弟子か。
ふむふむ、これは面白い。
今どき珍しい剣客気質じゃ。
よしよし、立会人は引き受けたぞ、安心せい。」
「はは、ありがとう御座います。」
「後れ蚊を 叩き殺生 許せよと」
「はぁ、今なんと...」
「いや、なんでもない。 しかし拝殿もいい男よの。」
それから一刻ほど二人は酒を酌み交わしながら真剣試合の打ち合わせをするのであった。
(takaさんより)追伸俳句はすべてRoshiさんの作です。
この小説のために発句していただきました。
それを私が文中に散りばめて使いました。
takaさん、Roshiさん、みよっちゃん、ありがとうございます。 m(._.)m ペコッ