(どうもおかしい。私はつけられている。)

  江戸へ一人で急ぎ向かうお雪はそう感じた。
確かな気配はないが熟練した忍びの感がそう言うのだ。


半刻ほど前から、いやひょっとしたらもっと前からかもしれない。
今やその感覚は抜き差しならないものへと膨らみ始めた。
お雪は尾行に気付いたことを悟られないようにして道を変えた。
何気ない足取りで林の中へと進んで行った。

  (そうだ、一本杉へ行こう。そこで相手の正体を見定めてやろう。)

  忍者はスーパーマンではない。
あらかじめ仕掛けを準備しているのだ。
そしてその仕掛けのある場所へ敵を誘い込んで
戦いを有利にするのである。   敵は気づいたであろうか
いやそんなはずはない。
そう思いながらだんだんと林の中の一本杉へと近づいていった。  

(いまだ。)

  お雪は高く跳躍すると樹間を抜けて
今度は素早く降りて草むらの中へと身を隠した。
草むらの一角に掘られた穴があり
その穴を通って枯れた樹幹の中へ潜り込んだ。
幹には小さな穴が八方にあけられていて
外の様子が分かる。
万が一、敵に発見されたときは
抜け穴を通って逃げられるようになっている。

  追ってきたはずの敵の姿が見えない。
お雪が跳躍したときは確かに
追っ手がいた。
その動く音がお雪に迫るのを感じた。


敵はどうやら一人らしい。
そして、お雪の姿を追ってこの林の中へ紛れ込んだはずだ。
しかし敵も姿を隠してしまった。
だが、ここにいるのは間違いない。   こうなると持久戦である。
先に動いた方が居場所を知られて不利になる。
お雪は整息の術により心身の活動を押さえて
自分の存在を消すことに努めた。
呼吸数も心拍数も極端に少なくなった。
こうなるともう仮死状態である。


いまや五感のみが機能しているに過ぎない。

  追っ手も相当なものである。
お雪に気配を全くつかませないでいる。
あれから何時間が経ったのだろうか
いや、何日かもしれない。


依然として両者の我慢比べが続いている。  

突然草むらが波打ち大きな蛇のように動く気配を感じた。

  (そこだ。)

  お雪が樹幹を抜けて
飛びくないを投げ撃ったとき
頭上から何かが降ってくる気配を感じた。

  (しまった、罠だ。)

  お雪は身を投げ出して
急襲をかわそうとした
しかし、かわしきれなかった。


敵の刀の切っ先がお雪の左肩先を斬り割った。
出血はしたが傷はさほどではない。
回転しながら残りの飛びくないを投げ撃ったが
敵には当たらなかった。

  お雪は走った。
樹間を抜け草むらを飛び越え
力の限り走った。
敵は木々を渡って追ってきた。
魔修羅のごとくどこまでも
鼠をいたぶる猫のごとく。

  やがて、山の中の空き地へと出た。
身を隠すところはない。  

(もはや戦うしかない。)

  お雪はそう観念して短刀を構えた。
敵は不敵な足取りで距離をおいて立ち止まった。
猟師のような装束に奇妙な刀。
まるで牛刀を小さくしたような。
しかも、奇怪なのは敵の顔につけられた面。
猿のような見たこともない獣をかたどった面をつけている。

  (この短刀ではあの刀には敵わない。
 飛びくないは使い切ってしまったし、
 こんな時に佐助がいてくれたら...)

  最後の戦いを挑むべく、
お雪が地を蹴ったまさにそのとき目の前に青竹が飛んできた。
竹は先が槍のように尖っていて地面に突き刺さった。

  「お雪さ〜ん、助太刀いたす〜。」

  声の方を見るとそこには日陰靄四郎がいた。
靄四郎は二本目の竹槍を投げて寄越した。
これを受け取ったお雪は勇気百倍を得て敵に対峙した。
敵は「ふふふっ」と含み笑いを残して身を翻して去っていった。  

(女か...)

  お雪はあの恐ろしい敵は女だと思った。
それにしても危ないところだった。

  「靄四郎さん、何でこんなところに...」
「ええ、剣術の修行で山に籠もっていたんですよ。
 ほら、髭がだいぶ伸びたでしょ。」
「靄四郎さんのお陰で危ないところを助かったわ!」
「いや〜、良かった。
 そうかぁ、ぼくはお雪さんの命の恩人になったんだね。
 うんうん、恩人だぁ、恩人だぞぉ〜。」


「はぁ...」  

とっても嬉しそうな靄四郎の無邪気な髭面に
呆れて見とれるお雪であった。

  そのころ、林の中を一人歩いている女。
先ほどの奇妙な面をしてお雪を追いつめたその女が
竹に詰めた酒を飲みながら苦笑いをしていた。

  (お雪め、命拾いしおって。
 しかし、まさか日陰靄四郎に邪魔されるとは...)  

この女、根来衆の女頭領お蓮であった。

 

 

 

              料亭泉屋の離れで、早乙女露詩之介と拝一途が酒を酌み交わしている。

  「では、手筈はこれでよかろう。」
「はい、殿様のお陰で段取りは整いました。」
「しかし、この試合ちと気が重い。」
「と申されますのは...」
「どちらにも負けてもらいたくないということよ。」
「さようでございますな。」  

秋月大二郎と日陰靄四郎との真剣試合の立ち会いを
引き受けた早乙女と拝であるが
両剣客の人柄を知るにつけ
試合の重大な結果が重くのしかかってくるのであった。
「では、後は当日またお目にかかります。」
「うむ、致し方もないことよ。」

  「遊里にて 冷たき手水(ちょうず)が 目を覚まし」
「はい、真に。」
 
拝はもう露詩之介の独り言には慣れてしまい
相槌まで打つようになった。

  二人が料亭泉屋を出て暮れなずむ永代橋端で別れた時
早乙女露詩之介の後をつける夜鷹姿の女がいた。
女は手ぬぐいを被り、むしろを背中にしょって
つかず離れずの尾行は巧妙であった。
やがて、露詩之介が目白台の屋敷へ
入って行くのを見届けると女はどこえともなく消えていった。

 

 

             
ここは目白台の武家屋敷の一画。
黒い板塀を巡らした広大な敷地は
かの早乙女露詩之介の屋敷である。


その屋敷の前を通りかかった巡礼姿の女が
いましも腹痛に耐えかねて路上にうずくまってしまった。
これを見かけた屋敷の中間が女を抱きかかえ
屋敷に引き入れて介抱をした。


お節介焼きの主人に似て
この屋敷の者は皆、人に親切である。
女のことは用人を通じて露詩之介の耳にも入った。

  三日後、女は何とか快復した。
長旅の疲れがたたって患ったものであった。
若いゆえに養生をすれば快復は早い。
元気を取り戻した女は屋敷の主人である早乙女露詩之介に
目通りを許された。

  「大事にならずまず良かったな。」
「はい、ありがとうございます。」
「そのほう、名は何と申す。」
「はい、お蓮と申します。」
「そうか、ではお蓮はこれからいかが致す。」
「はい、身よりも無くすべきこともありませんので
 何か私にできることがございましたらここに置いて
 いただきとう存じます。」
「さようか、しかしこの所帯じゃ、そちを置いておくことは適わんのじゃ。」  

障子戸を通して庭から差し込んだ陽差しがゆらゆらと揺れている。
露詩之介が陽差しが揺らぐ湯呑みに目を落とした隙に
お蓮が控えていた用人大久保彦右衛門に素早く目配せをした。

  「殿様に申し上げます。」

  用人の大久保が口を開いた。

  「なんじゃな、彦右衛門。」
「はい、実は奥向きで粗相をした者がおりましたので
 先ほど暇をとらせた者がおります。
 よろしければこのお蓮を代わりに置いてはいかがかと」
「ふむ、なるほど。
 では、そのようにはからえ。」
「ははっ。」  

これでお蓮は早乙女家に奉公する事となった。
用人の大久保はお蓮に目配せを返して微笑んだ。
これに早乙女露詩之介は気づかない。  

「手焙りに 粋な姉御の 手を添えて  ふむふむ、よしよし。」

  露詩之介の唐突な独り言に
目を白黒させながらも
お蓮はしめたとばかりに心の内で舌を出した。
この女、あのゴージャスな嘉納姉妹の妹お蓮である。
根来衆の女頭領お蓮はいったい何を企んでいるのか...

 


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