ここは鐘ヶ淵の一軒家。
一人の人品卑しからずの老人と
年の若い妻が仲良く暮らしている。
 
そこへ一人の若い女が訪ねてきた。
女はおきのである。
数日前にひょんなことから老人と知り合いになり
その魅力に惹かれて老人宅を訪ねるようになったのである。
きょうは年の暮れでもあることから筍やら里芋やらを
駕籠に背負っての訪問である。
 
「やぁ、よう来なさった。
 ちょうどあれが退屈しておったとこじゃ。
 わしが夜もよう可愛がってやれんもんじゃから
 ふてくされておってのぉ。」
「やだよぉ、先生ったら嘘ばっかし言うて。」
 
若女房のお秋(おあき)は恥ずかしそうに
奥から縁側へ出てきた。
 
「まぁ、そんなこと言って
 可愛がってもらっているのは先生のほうじゃありませんか。」
 
とおきのがやり返す。
 
「はっははは、ほんにそうじゃた。」
「あれまぁ、やだよぉ
 先生もおきのさんも。」
 
お秋は老人の陰に隠れてしまった。
老人は名を秋月平右衛門(あきづき へいえもん)という。
若い頃は剣客としてその名を知られ道場を構えては
多くの門人を仕込んでいたが
今は隠居して孫のような妻と静かに暮らしている。
 
「お秋さん、きょうは筍と里芋を持ってきましたよ。」
「あれ、いつもすまないねぇ。
 まぁ、こんなに。」
 先生、あとでたんと美味しいもの作ったげるね。」
「おお、精のつくもんをたのむぞ。
「まあ、やな先生。」
「うふふふふふっ。」
 
「おきのさんや、ちょうどいい。
 これと一緒に川へ行って来なされ。
 今日はなんだかいいものが捕れそうな気がするのじゃ。」
「はい、そうします。」
「まぁ、嬉しいよぉ。
 それじゃ、これから行きましょう。」
 
おきのはお秋と連れだって鐘ヶ淵から
自家用の小舟を出した。
お秋の船頭振りはどうしてなかなか板についたものだ。
しばらく川を上ると何やら川面が騒がしい。
お秋が投網を投げると
なんと大量のエビがかかった。
おきのが投網を投げると
なんと大量のカニがかかった。
また投げると鯛がかかり
またエビ
そしてカニ
またまた鯛
あっと言う間に小船はいっぱいになってしまった。
 
「どうしたんだろうねぇ、おきのさん。」
「へんだねぇ、お秋さん。」
 
首を傾げながらも浮き浮きと全部引き揚げて
むしろを大漁旗よろしく隠宅へと引き返した。
 
「先生、先生、たいへんだよぉ。
 みてけろ、こんなにエビやカニや鯛が捕れちまったよぉ。」
「ほぉ、そうかい、そうかい。
 おお、すごいな。
 いまにな、与七親分が来るからその生け簀に入れておくれ。」
 
いつの間に用意されてたものか庭に池が掘られている。
やがてやってきた与七親分達が獲物を桶に移し換えた。
 
「与七や、うまくいったのぉ」
「へい、もう先生の言うとおりで、この2里先の上流でした。
 荷を積みすぎたんで橋の途中で見事落っこちやした。」
「それも、お前の仕掛けでな
 これで大黒屋も懲りたろう。」
「へい、がっくりした顔が思い浮かびやす。
 まったく買い占めて儲けようたぁ太ぇ野郎です。」
「さぁ、それじゃ江戸の貧しい人たちのところへ
 届けてやんなさい。」
「へい、じゃあっしはこれで
 そうそう、先生の分はこの桶に残しておきました。
 では、御免なすって。」
 
なにがなんだか分からずに呆気にとられる
おきのとお秋。
 
「さあ、これはおきのさんあんあたの分だ。
 きょうはよく働いてくれた。
 そのご褒美だよ。」
 
おきのは持ってきた背負い駕籠にたくさんの
エビやカニや鯛を貰って帰ることになった。
何だか狐につままれたような感じである。
 
(これじゃ食べ切れやしない。
 元四郎や〜い。
 ご馳走がたくさんだよ〜。
 だから早くかえってこ〜い。)
 
重い駕籠を背負って巣鴨へ帰るおきのであった。
 
 
 
 
 
 
 
ここは浅草寺近くの長唄の師匠お涼の家。
 
「お涼さん、今日はどうも気が乗らないようすですね。」
「ご免なさいね、幸兵衛さん。
 どうも気がふさいでしまって、三味も鳴りが悪くてねぇ。」
「そうですかい。そんなときは、ぱぁ〜っと騒ぐのが一番。
 先日お誘いした料亭泉屋へ行ってぱぁ〜っとやりましょうよ。
 そうだ、芸者をあげてドンチャン騒ぎと洒落こんで...」
 
そこまで聞いて
思わずお涼は身を乗り出した。
 
「えっ、いま何て言われました。」
「へっ、芸者をあげてって申しましても
 これが男芸者でして、今噂の幇間の...」
「いえ、そうじゃなくて、料亭というのは。」
「ああ、泉屋のことですか。」
「その泉屋さんというのは富岡八幡宮近くの...」
「はい、ようご存じで。」
「いえ、大変いいお店だとどこかで聞いたものですから。」
「そうなんですよ。こぢんまりとした店ですが
 気の利いた酒と肴を出しますもんで仲間内では
 大評判の店でしてねぇ。
 なんならこれから行きましょうか。」
 
いつもならここで何だかんだ言っては断るお涼なので
また駄目だろうと思う幸兵衛であったが
意外にもお涼の返事は
 
「はい、お供しましょう。」
「ありがたい、そうこなくっちゃ。」
 
お涼は佐助の手がかりが何かつかめるかと思い
料亭泉屋へ行くこととした。
池田屋幸兵衛は下心丸出しで
お涼を誘ったのである。
早速、お涼が着替えを済ますと
呼び寄せた2丁の駕籠に乗って料亭泉屋へ向かうのであった。

 

ここは江戸郊外にある鐘ヶ淵の隠宅。
かの老剣客秋月平右衛門と
若い妻のお秋がひっそりと暮らしている。
そこへいましも一人の若い男が
大股にゆったりとした足取りで
雲ひとつない冬空の下
柔らかな陽ざしが降り注ぐ庭へと訪ねてきた。
 
「父上お久し振りでございます。」
「ほぉ、珍しい奴がやって来たぞ。」
「まぁ、若先生いらっしゃい。」
 
この男は秋月大二郎といい
平右衛門の子息であり
お秋の継子にあたる。
もっとも、お秋のほうが大二郎よりも
二つ年下になる。
 
「母上にもつつがなくご健勝にて。」
「いやですよぅ、そんな挨拶。」
「まぁ、とにかくあがれ。」
 
「父上、実は明日試合をします。」
「ほぉ。」
「真剣試合です。」
「ほぉ。」
「ですが、この試合どうも
 気がすすみません。」
「ほぉ。」
「先生ったらふくろうみたいに
 ほぉ、ほぉって可笑しいねぇ。」
「お前は奥に引っ込んでいなさい。」
「なんですよぉ、おっかない顔して...」
 
お秋はしぶしぶと奥へひきあげて行った。
 
「なぜ気が進まないのじゃ。」
「私は今までに何人もの剣客と戦ってきました。
 ですがもう罪もない人を傷つけたくはないのです。」
「ほぉ、もう勝ったつもりでおるのか。
 いい気なものじゃ、このたわけ者めが。」
「・・・・・」
「無念無想の境地で全力を尽くして
 試合に臨むことが剣客としての礼儀ではないのか。
 そんなことも分からなくなったのか。
 呆れた奴よ。
 もう良いわ、帰れ。」
「はい、おかげで迷いが吹っ切れました。
 これにて御免。」
 
急に静かになったので
お秋が居間へ顔を出した。
 
「あれ、若先生はもう帰ったんですか。」
「ああ、帰ったよ。」
「明日の試合は若先生が勝ちますよねぇ。」
「さぁ、どうだかわからんよ。」
 
それっきり平右衛門は黙って
愛用の銀きせるで煙草をふかしてばかりいる。
お秋が声をかけることも許さないかの様子であった。
 
 
 
 
 
 
 
年の暮れも間近のある日。
店を開ける準備をしていた料亭泉屋の
玄関先に薄汚い乞食が迷い込んで来た。
 
「ああ駄目だよ、おこもさん。
 施しがほしいなら裏へ回っておくれ。」
「へいへい、分かりやしたよ文治さん。」
「えっ、何だって。」
「俺だよ、文治。」
「あっ、お頭...」
 
乞食の姿をしていたのはなんと仁之助であった。
仁之助は箱根の隠し湯で長湯治をしていたが
すっかり傷も癒えたので変装をして
刺客の目を誤魔化しながら
江戸へ帰ってきたのであった。
 
料亭泉屋は富岡八幡宮の近くにあり
創業はさほど古くはない。
跡継ぎのいなくなった店を仁之助が買い取って
息のかかった者を入れて店を始めた。
文治は仁之助の信任が厚い板前である。
泉屋は庶民から大店御武家にも利用される店である。
表玄関を入ると通路の両側に入れ込みがあり
奥に二間、二階に広間がある。
そして離れが二つありそれぞれが
趣向を凝らした造りになっている。
そして、この日からその離れのひとつに
仁之助が起居することとなった。
 
「仁之助さん、体の具合はいかがですか。」
「ああ、佐助さんもうすっかりいいようだよ。」
「ところで上方の動きはどうなんだい?」
「それなんですがとうとうやってくるようです。
 それも破魔崎の伝蔵が自ら来る様子です。」
「そうか、ついに全面戦争って訳かい。」
「そうなりますね。」
「ところでお雪はどうしているんだい。」
「堂悦先生のところで大人しくしていますよ。」
「そいつはどうも信用ならねぇ。
 傷がふさがりゃもう
 大人しくしているようなお雪じゃねぇ。」
「そう言われれば...
 いまごろはもう走り回っていますかね。」
「ちげぇねぇ。
 はっははははは...」
 
 
 
 
 

「さぁさぁ、きょうはぱ〜っとやっておくれ。
 ご祝儀はたんとはずむよ。
 わたしゃ嬉しくてねぇ。
 お涼さんがこうして来てくれたのが何より嬉しい。」
「池田屋さん、もうそんな風にはおっしゃらないで下さいな。
 さぁ、おひとつどうぞ。」
「おぉ、これはこれは。」
 
池田屋幸兵衛はお涼を料亭泉屋へ誘い出せたので
上機嫌であった。
 
「そういえば稲荷屋狐音太夫(いなりや こんだゆう)は
 まだ来ないのかね。」
 
三味線や女芸者だけでは物足らない
池田屋幸兵衛は段々と苛立ってきた。
 
「はい、お座敷が立て混んでいますようで。」
「この池田屋幸兵衛が呼んだんですよ。
 よそさんは断って早くここへ呼んできなさい。」
「そんな無茶なことをおっしゃられても...」
 
そこへお待ちかねの稲荷屋狐音太夫が姿を現した。
 
「お狐音晩わ。
 大変遅うなりまして
 誠に申し訳ありまへんでした。
 いつもいつも池田屋さんにはご贔屓にしていただきまして。」
「おぉ、まちかねましたぞ。
 ささ、こっちへきておくれ。
 お涼さん、こちらが狐音太夫ですよ。」
「お涼と申します。よろしくお願い申します。」
「あら、ご丁寧に
 私は稲荷屋狐音太夫と申します。
 こちらこそよろしゅうおたの申します。」
「まぁまぁ、挨拶はその辺にして
 ぱ〜っとやっておくれ。」
 
狐音太夫が三味や太鼓の音に合わせて
面白可笑しい踊りを始めた。
稲荷屋狐音太夫は今の江戸で一、二を争う
超売れっ子の男芸者、つまり幇間である。
踊りもさることながら話芸が巧みで
とりわけ駄洒落話は天下一品である。
そして人気の絶頂にあっても驕るところがなく
その気さくさがまた贔屓客を喜ばせるのであった。
 
「え〜、それではここらでひとつ駄洒落話のご披露を...
 暑さ寒さもひがみから。
 実るほど 文句をたれる 自分かな。
 冬来たりなば 春まではずいぶん寒い。
 二度あることは もうそんなにはない。
 情けは人のためならやめとこ...」
 
稲荷屋狐音太夫の十八番。
駄洒落話が始まると宴席はもう笑いの渦の中。
三味線弾きの婆さんまで
歯のない口で
「ふがふがふがぁ」っと大笑いして
ひきつけ寸前。
 
「え〜、まだまだあります...
 二番目の初恋の人。
 一事が万事ージャンプ。
 一家の大黒茶柱。
 人生 七転び早起き。
 ほんの ちょとつ猛進。
 千里の道も 五十歩百歩...」
 
狐音太夫の駄洒落話が一段落すると
酒が大杯で振る舞われた。
 
「ちょいと失礼します。」
 
お涼は中座して
渡り廊下へと出た。
ここは料亭泉屋の離れの一室である。
離れと本家を繋ぐ渡り廊下が途中でふたつに別れ
一方はもう一つの離れへと繋がっている。
お涼が廊下へ出たちょうどそのとき
もう一方の離れの戸障子が閉まるところだった。
その時垣間見えた背中に見覚えがあった。
 
(佐助だ、佐助に間違いない。
  やはり、ここに出入りしていたのか...)
 
お涼が渡り廊下の中程の二又に分かれるあたりで
もう一方の離れの様子を窺っていると
背後に人の気配を感じた。
振り向くと稲荷屋狐音太夫が
にこにことして
 
「お涼さん、お手水は本家の方ですよ。
 さぁ、こう来なされ。」
 
と先に立って案内した。
お涼を案内したあと
離れへひとり戻る狐音太夫の顔が険しい。
 
(お涼さんはどうやらもう一方の離れを窺っていたが
 ただごとでは無い様子であった。
 それにお涼さんの身のこなしはどうもただ者ではない。
 これは何かありそうな。)
 
そういう稲荷屋狐音太夫もまた、ただ者ではないと言える。
そして池田屋幸兵衛が待つ部屋へ戻った狐音太夫は
いつもの幇間そのものの顔になっていた。
 
 
 
 
 
 
 

寒い朝である。
まだ暁暗も明けきらぬ内に
早乙女露詩之介は単身
微行姿で屋敷を後にした
 
「ううむ、寒い。
 音もなく 霜踏み鳴らす 江戸の朝」
 
今日は江戸郊外の葦ヶ原で
秋月大二郎と日陰靄四郎の
真剣試合が行われる。
その試合の立ち会いをするために
露詩之介は出かけたのである。
そのとき、薄闇の中をうごめく影二つ
おぼつかない足取りで露詩之介の後をつけていく。
 
 
 
 
 

「風間さん、とうとう出てきましたよ
 早乙女の野郎が。
 いま、見張りの佐々木たちから
 知らせがはいりましたよ。」
「そうか、出てきたか。
 よし、みんなついてこい。
 内田、弓を忘れるなよ。」
 
雷神党の一団が朝靄の中
各々の得物を引っ提げて小走りに出ていくのであった。
 
 
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