「a butterfly」
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織音がふいに姿を消してから1ヵ月経った頃に
ユキ達のアパートに電話が入った。
織音からだった。
その後の様子を聞けば、
あの日家を出た後、一度旅行で
訪れたことのある旅館に住みこんで
働かせてもらっていると言う。
たいそう気立てのよい女将らしく
そこでの生活は楽しいし
周りの人も皆、親切で、、、と続ける織音の言葉に
『相手がアンタなら、みんなそうなるよ。』と
過去の記憶に思いをめぐらして、相手に見えない電話口で笑った。
そのときにさらっと、省吾の様子と向こうでの住所を聞かれた。

省吾はニューヨークに来たものの、そうとんとん拍子に上手くいくわけもなく
レッスンにバイトにと往復する忙しい日々が続いていた。
どちらかといえば高額のレッスン料に家賃、
食費など最低限のお金を捻出する為
その時間のほとんどがバイトにあてがわれていた。
せっかく遥々海を渡ってここまできたのに、と
余りの不甲斐ない状態に、もう帰ろうかと弱気になるときもあった。
そんなある日のこと。省吾が、ダウンタウンの雨漏りのする部屋に戻り
仕事で疲れた体を横たえていると、厚みのある郵便物が
届いた。
それをみて、省吾は首を傾げた。
差出人の名前がないのだ。
でもあて先は間違えなく自分宛になっている。
一瞬、姉かなと思った。
しかし、エアーメールではない。
不思議に思いながら開封してみると
そこには数枚のお札が入っている。
びっくりしていると、なかに紙片が入っていて
「貴方のために使って下さい。」と英語で書いてある。
それはそれは送り主の人柄を偲ばせるような
優しく、美しい字だった。

狐につままれたような気持ちでそれを呆然と暫く見ていたものの
そんなわからないお金が使える筈もなく
仕方がないので送り主がわかるまで
引出しにしまっておいた。
しかしその後も1ヵ月ごとに決まって同じ封筒が送られてくるのだった。

心がいつもより弱っていたある日、省吾は思った。
誰が親切に送ってくれているのかは知らない。
しかしせっかくの気持ちにいっそ、甘えてしまおうと。
それほど、省吾はもう極限状態にあった。
そのお金を生活費等にあて、そのぶん
バイトの時間を半分に減らし、レッスンに打ちこんだ。
それはもう、なにかにとりつかれたように真剣に。
決して、お金も時間もむだ遣いなどしなかった。
感謝の気持ちを忘れず、大切に、その真心を使った。
そのうち省吾の周りに少しづつ変化が現れ出した。
そして気づいた時にはトップに登り詰めていた。

トップアーティストとして活躍する省吾には
バイトなどもう必要なくなり、
その分仕事で忙しなく各国を飛びまわっている。
そんなおり、気心の知れた担当マネージャーと仕事の後、
楽しく飲みながら、ふと、その不思議な封筒の話を切り出した。
それを聞いて、すっかり興味を持ち、乗り気になったマネージャーは
送り主を、ぜがひにも捜してみようと張り切った。
省吾としてもこの恩人にどうしてもお礼が言いたかったので
無理にでも時間を作り、秘められた真実を見つけようと決意した。

色々なルートを使って捜した結果、送り主は省吾の知らない
日系アメリカ人の主婦だとわかった。
無け無しの時間を遣り繰りしてその場所に赴いた。
大きな杉の木がシンボルの
わりと広い庭を持つ一軒家。
そのポーチに立ち、チャイムを押すと
身ぎれいな婦人が出てきて、どなたですかと尋ねた。
省吾は「浜口 省吾といいます。」と名乗ると
「まあ、あなたが。」とうれしそうに微笑んで大きな体で抱きついてきた。
戸惑いながらも、いままでのことを問い尋ねると
「そう、貴方はなにも知らなかったんですね。」
といって、部屋のなかに差し招いた。

省吾の元に現金を送っていたのは織音だった。
知合いのこの女性に頼んで、名前を伏せて
省吾のもとに送り届けてもらっていたのだ。
旅館で膳運びや掃除やらの仕事をしながら
汗水流し一生懸命かせいだお金を
省吾の夢の手助けになればと、出来る限り送金していたのだ。

それを知って愕然とした。
俺は一体どれだけ大切なものを見失っていたんだろうと。
織音のことは深く愛していた。
こちらに来てからもその気持ちは変わらなかった。
しかし自分とはあまりにも境遇が違う人を思ったところで
どうなるものでもなかろうと。
げんに翌日には婚約者のもとに帰ってしまっていたのだし。


"帰るべき場所が どこかわからなかったよ 

愛する人の住むところが どこだろうが故郷さ

君の住む町が My home town. 

君のいるところが My sweet home" 




つづく

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