気付いた時には甲賀に続く道をわき目も振らずに駆けていた。

「お父上、お父上、どうか御無事で…」

と心で繰り返しながらいくつもの山を越え谷を越えた。

すでに東の空は白みはじめている。

どこからか仏法僧の鳴き声も聞こえる。

お雪は辺りに小川を見つけその冷たい水で顔を洗い

そのまま揺れる水面を眺め、いまさら気付いたかのようにふと考えた。

「果たして、いまのあたいに父上に会わせる顔があるんだろうか。

忍者の掟を破り自分の好き放題にしているこのあたいに。」

自分のしていることには誇りを持っている。しかしそのことで父上が

苦しんでいることもよく判っているつもりだ。

「それでも一目で良いからお会いしたい。そして親不孝を謝りたい。」

そう結論が出るとまた風を切って走り出した。

 

 

お雪が甲賀の里にたどり着くと、隆矩は昏睡状態になっていた。

甲賀忍び伴家の行く末を案じ心を砕いた日々の心労で、

隆矩の身体は病魔に蝕まれていた。

寝ずの晩で看病を続けるお雪。

白い寝衣に白い布団。

横たわった隆矩の体は、まさに老人のごとく小さくなってしまったかのように見える。

そして、ふくよかだった面立ちはげっそりとしてしまい、小鼻の肉は削ぎ落ちている。

お雪の目から見ても、もはや死期は近いと見て取れた。

「お父上・・・心配ばかりかけてごめんなさい。うっく・・」

父への思いが込み上げる度に

濃い憔悴の色が映るその頬を

二筋の涙が後から後から伝って落ちていく。

 

★明け方に、隆矩の白くなった眉がひくひくとしたかと思うと、ぱっと目を開いた。

「お雪、来ていたのか...」

その声にお雪は、ばっと畳みに身を伏せ

「はい。本来ならお父上にこうしてお会いすることは決して許されないことと

このお雪も判っております。しかしわたしの身勝手の為に大切なお父上を

苦しめておいて知らぬ振りはとてもできません。

どうぞ、傍において今しばらくお世話をさせて下さい。」

隆矩はそんなお雪の姿をじっとみていた。

その目にうつる光は死期が迫る病人のものではなく,

かつての幾人もの忍びの頭領として君臨していた頃の威厳を帯びている。

重たく口が開いてこう問うた。

「お雪、決して後悔などしておるまいな。」

「・・・・・・・・・・・・・・」

そう問い詰められても、

今こうして自分の我侭の為に一気に年老いてしまった父を目の前にして

お雪が言い淀んでいると、隆矩はその視線を開け放たれた襖の向こうに広がる

深山渓谷の趣を作り出している庭の水の流れに移しながら

ぼそりといった。

「時代の流れには誰も適わない。もうすでに隗ろうとして生きる

忍びの時代もおわった。そしてわしの時代も…」

 

「父上、そんなことは御座いません。

すぐに元通りの元気な体に戻れます。

このお雪がお世話する限り、必ず大丈夫でございます。」

すっかり細くなってしまった隆矩の手をぎゅっと握り締めそういう娘に

「お雪らしくもないことを...自分の寿命も分からないで何の修行ぞ。」

「はっ。」

お雪は隆矩の死に臨む峻厳なまでの姿勢に感動し、

そして人の命の無常に対するやるせなさで声も出なくなってしまった。

 

「死は怖いものではないぞ。今はそのことがよく分かる。」

「今一度お雪に会えて良かった。」

「甲賀の時代はもう終わった。されば、もはやすべて許そう。」

「お雪は忍びを捨てて普通のおなごとして生きよ。」

「.....」

「と申しても従うような娘ではなかったか...。ま、良いわ、好きにせよ。」

お雪が自ら煎じた薬湯を飲み終えると、隆矩はまた深い眠りに落ちていった。

 

次の晩、お婆が、お雪に代わり看病をしていると、突然隆矩は目を覚まし、

上体を起こすかのように二の腕を力なく差し伸べ、

「おふじ...」と声にならない言葉を残して、

お婆が寄りそう間もなく力尽きてそのまま生き絶えてしまった。

それは、甲賀忍び伴家の頭領として静かな最後であった。

 

 

 

 

お雪は赤々とした沈む夕日を眺めていた。

いつまでも放心した状態でここに腰を降ろして動こうとしない。

父の死を悲しむための涙はもう枯れ果ててしまっていた。

それは小高い山の頂上で、甲賀の里では一番見晴らしのよいところである。

子供の頃から嬉しいこと哀しいことがあると、いつもここに来て数刻を夕暮れまで過ごした。

ここにいると、幼い頃に亡くなった母親の”おふじ”に会えるような気がした。

そして、いつも母親のかすかな面影に向かって心の中で語りかけていた。

「お雪、やはりここにいたのか。」

お雪が振り向くと、そこには佐助が立っていた。

 

 

「佐助、人の一生なんてあっけないものだね・・・」

地面に咲いている一輪の野の花を指先で摘みながらそう呟いた。

「あたいは父上のような生き方は出来なかった。

誰よりもあの人を尊敬もしていたし目標にもしていた。

それはとても届く事の無い高すぎる山だったけれど・・・

でも、いつ頃からかそんな父の生きかたに疑問を持ち、

父を裏切り、あたいはあたいの決めた道を選んだ。

それでも・・・

大切な人を守りたいという気持だけは

父上と同じだと信じていた。そうだよ・・・ね?」

と風にかき消されそうな声でいった。

「ああ、もちろんさ」

いつもと変わらない優しい瞳でそう答えてくれる佐助の言葉に

ぽろっぽろっと安堵の涙が零れた。

そんなお雪の顔をしゃがみ込んで覗きこみ、薬指でそっと涙を掬い取りながら

「いつまでたってもお雪は泣き虫だな。」

と、そういわれるとなんだか急に恥かしくなった。

ものごころついた頃から佐助はお雪の傍に居ていつでも守ってくれた。

かつて狼に襲われたときも、禁じられていた巨木に登って

降りられなくなった時も、先日の因幡屋でのピンチの時でも

いつもすぐに駆けつけて身を呈して助けてくれた。

そしてなにより自分のことをすべて理解してくれるかけがえのないひとだった。

この人が傍に居てくれるから自分はこうして生きていられるんだと気付いた。

 

お雪は縋るような目で佐助を見つめ

いままでそっと自分の胸の中にしまい込んでいた想いを堪えきれずに打ち明けた。

「佐助・・・お願い、あたいを抱いて。」

そういうと震える唇を佐助の唇に重ねようとした。

しかし実際には背伸びをした雪の上向きの頭はしかし

佐助のたくましい腕によって、その胸へと

 自然に誘われ、やさしく撫でられていた。

「・・・それは出来ないんだ、決して」

無理やりに心の奥底から搾り出すかのような声だった。

「どうしてっ!あたいのことが嫌いなの?どう・・どうして・・・」

佐助の胸を拳でドンドンと力いっぱい叩きながら

佐助の膝に崩れ落ちるお雪が

「ほかに好きな女(ひと)がいるの。。。?」と尋ねると

  「そうじゃない。」

 「じゃあ、どうして?」

「お雪、おまえは、俺の。。。」

「何?、あたいは、佐助さんの何なのよ?」

 泣きじゃくりながら問いかけるお雪の耳に

  佐助の思いつめた声が聞こえた。

  「双子の、妹なんだ。。。」

と告げた。

 

 

その頃、甲賀忍び伴家のお家騒動がおきて、

産まれてくる子が男の子の場合は伴家分裂を

避けるために殺さなければならない事情があった。

生憎産まれたのは男女の双子であったため、

男の子を隠して女の子だけの出生とした。

男の子はお婆の細工により配下の者の子として育てられたのである。

 

「そんなの悪い冗談でしょ?」

そういいながらも相手の瞳から紛れもない真実なんだとお雪は読み取った。

そしてふと空を横切った鳥に今後二人の進む人生を

真っ二つに切り裂かれたような錯覚を覚えた。

 

「おれはしばらく甲賀を離れ旅に出ようと思う

でも、いつか必ずここに戻ってくる。

そのときはきっと二人、笑顔で再会しような。」

そういうと、もう一度お雪の体を抱きしめた。

 

 

 

 

そのころ同じ空の下

 

*「馬場無婆、番晩盤、派亜、微場野牟乃」

まもなく日が暮れようとする四ッ谷の道を、

みすぼらしい僧が怪しげな経文を唱えながら歩いていた。

「井伊愉陀奈、派々判、井伊愉陀奈、弓削賀。。む?誰じゃ?」

みれば、僧の行く手をはばむように一人の侍が立ちはだかっている。

「やっと見つけたぞ、蔵吉」

「き、貴様。。。」

「坊主に化けるとは考えたな、だが拙者の目はごまかせぬぞ。」

と、件の侍、あたりにひと気がないのを確かめ、

三河鍛冶の手による銘刀”加古太郎”二尺三寸をギラリと抜いた。

「もはや逃れられぬ、観念いたせ!」と切先を僧の喉元にピタリとあてる。

「ま、まってくれ、ヤツの消息を知りたくねえか? 助けてくれれば教える。」

「なに?、貴様、嘘をつくと為に成らぬぞ!」

「う、嘘じゃねえ、本当だ、本所の金貸しの用心棒になって。。。」

「なんだと。。。」

「くわしく話しますから、命だけは助けておくんなせえよう、名和の旦那ァ。。」

と、哀願する目に嘘がないことを見取った侍は、

鍔鳴りの音も静かに、刀を鞘に納めた。

しばらくして、夕闇に融け込むように走り去る盗賊蔵吉の足音を背に聞きながら、

「くノ一のお雪、甲賀忍びか。。。」

とつぶやいた侍の目は、激しい憎悪に燃えていた。

歳の頃は三十程、身の丈は五尺六寸三分のこの侍、

名を、名和元四郎貴尉(もとしろうたかやす)という。*

 

 

「任二期二期二期、任二期二期二期、煮任賀三蔵♪」

橋を渡って、上機嫌に鼻歌を歌いながら歩いている侍がいる。

「いやあ、憂鬱なことがないわい」

 

楽天家侍、名和元四郎、憂鬱のない剣客である。

 

と、元四郎の眼がキラリと光った。

その目は、さきほどの鼻歌侍とは別人のようである。

 

「あやつは、たしか。。。。甲賀忍びの、佐助・・?」

視線の先には、おとなしげな町人の姿が。

決して忍びのものには見えない風体である。

「同じ甲賀の忍び。ひょっとしてお雪とかいうくノ一のこと、手がかり

の糸口になるやも知れぬ。」

と、跡をつけて歩きはじめる。

ところが、ほどなく、件の町人がダッと走り出した。

「むっ!」

あわてて跡を追う元四郎。だがあっという間に見失った。

「気取られたか。。。やはり、あいつ。まあ、よいわ、次は逃さぬ。」

とまた鼻歌を歌いながら、歩き始めた。

名和元四郎、憂鬱のない楽天家のようである。

 

 

「もうだいじょうぶだろう。しかし、あの侍。。?」

元四郎の尾行を瞬時に見破った佐助は腰をおちつけようと

適当な茶店はないかとあたりをみまわした。

と、ぎょっとしたように、ある店の屋号に目をとめた。

「いなばや。。。?」

ちょうど、その「いなばや」の向かいの茶店に入り

「いなばや」をうかがうが、怪しい様子はない。

どうやら屋号が同じというだけのようだ。

ほっとして茶をすする佐助はさっきの侍のことを考えていた。

「顔はみていないが、いったい誰だったのか。。」

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大切なお父様が・・・

ああっ、お雪はこれからどうやって生きていけばいいのでしょう。

(taka様、御出演お疲れ様でした。これからも宜しゅうにv)