特別編「日陰靄四郎外伝隠密紀行T」
甘酒売りが荷を下ろして汗を拭う猛暑の昼下がり、
商家の小僧が撒く打ち水もすぐに乾くかのようである。
日陰靄四郎(ひかげもやしろう)は北町奉行高木帯刀(たかぎたてわき)の
呼び出し状を受けて役宅の書院へと赴いた。
「父上、このたびは急なお呼び出し、何事でありましょうか。」
「うむ。そなたに旅に出てもらわねばならん。」
日陰靄四郎、本名は高木丈之進。
江戸北町奉行高木帯刀の四男である。
直参七百石の旗本ではあるが、四男坊では職もなく部屋住みの居候でしかない。
婿入りの口でもあれば良いがさもなければ父兄の厄介者になる。
丈之進は幼き頃から剣筋がよく、江戸でその名を知られた無念流平山道場に学び
折り紙を受けるまでになるが、平時のこのご時世では芽の出る機会がない。
「私は兄上達の厄介物として過ごすことは我慢できません。
できることなら父上のお役に立ちたい。」
そう言って、隠密となるべく市中に潜り込んだのであった。
以来、丈之進は父北町奉行直属の隠密として活躍する一方で、
日陰靄四郎として町の子供達に手習いや絵を教える気のいい浪人者であった。
「して、父上、それはどのようなお役目でありましょうか。」
「そなたに密かに大阪へ行って人探しをしてもらいたいのじゃ。」
「はぁ、大阪へ...」
当時江戸では、徳川家の統制は確固たるものとなり市場経済も盛んであった。
しかし、その一方では退廃的な悪習も目に余るものがあった。
有り余る財をなした商人のなかにはご禁制の品を求める者もあり、
また、阿片という薬物を常用する者まであらわれた。
特に阿片が江戸市民を蝕むようになったため江戸町奉行の頭は痛い。
近ごろ、町方の探索により大阪に密貿易の大掛かりな組織があることが分かり、
奉行の命により密かに同心山田彦太郎が大阪に派遣されていた。
ところが、ひと月程前から山田同心からの音信が途絶えてしまった。
高木丈之進は浪人日陰靄四郎として山田彦太郎同心の行方を確かめ、
更には密貿易の黒幕を探るために大阪へ密かに赴くこととなった。
明日の旅立ちを前にして、丈之進は無念流平山道場を訪ねた。
師の平山左内に日ごろの無沙汰を詫び、世間話をしてほどなく辞した。
そして、平山道場からの帰り道に偶然ある男を見かけた。
その男、秋月大二郎であった。
忘れもしない。
彼こそ、昨年正月の将軍家御前試合において惜しくも破れた相手であった。
それは、江戸に聞こえる名だたる道場の代表格が一堂に会しての試合であった。
高木丈之進と秋月大二郎は、最後の四人に勝ち残り試合をしたのである。
「秋月殿、お久しゅうござる。」
「おお、これは高木殿ではないか。」
「ここで会うたのも何かの縁、その先で一献いかがかな。」
丈之進は秋月大二郎を誘い、目についた料亭泉屋へ入って行った。
泉屋はこじんまりとした造りではあるが、こざっぱりとしていて
店の者の気配りも行き届いている。
そして何より、酒も肴も気の効いたものを出した。
「しかし、その節は見事にやられましたな。」と丈之進。
「いやいや、勝負は時の運ですよ。」と応じる大二郎。
「秋月殿、あなたは確か決勝で破れましたが、相手の名和元四郎とかいう
御仁はいったいどのような...」
「うむ。あの剣法はなんとも、ううむ...
あ、いや、その話は酒が不味くなる。まぁ、やめておきましょう。」
なにやら、いわくありげな秋月大二郎の口ぶりではある。
丈之進は久しぶりの酒に酔いがまわりいつになく饒舌であった。
剣術への情熱を語るうちに勃然としてもう一度秋月大二郎と勝負をしたい
という気持ちを押さえきれなくなった。
「秋月殿、お願いがござる。」
「どのようなことでしょうか。」
秋月殿、今一度勝負を願いたい。真剣での、そう真剣での勝負を願いたい。
木刀では真の力は出ない。真剣勝負こそが我が望み。いかが。」
酒の席とはいえお互い認めるところの剣客同士、
後日あらためて、使者を立て勝負の申し入れをすることを約して別れた。
翌朝、大阪へ向けて旅立った丈之進、二日酔いの頭は重く、気も重かった。
(ああ、酔った勢いで真剣勝負を申し込んでしまったが、
今の俺では勝てそうにもないなぁ、困ったなぁ、どうしよう。)
実はまだ真剣で人を斬ったことがない丈之進であった。
丈之進は道中を浪人日陰靄四郎でとおすこととした。
このため以降は日陰靄四郎として話を進めたい。
靄四郎は大阪の地を踏むと、父の指図どおりに
大阪町奉行の浅野長門守の役宅を訪ねた。
江戸北町奉行高木帯刀からの手紙を読み終えた浅野長門は
靄四郎に対して遠路はるばるのねぎらいの言葉をかけ
与力の佐々木忠兵衛に引き合わせた。
佐々木忠兵衛は浅野長門守の信任の厚い古参の与力であった。
「大阪は不案内でしょうからなんなりとお申し付けください。」
「このたびはご面倒をおかけ致します。」と靄四郎。
「いえいえ、お気兼ねご無用に願いましょう。」
型どおりの挨拶が済むと、靄四郎は佐々木与力の案内を受けて
役宅からほど近い旅篭へと旅装を解いた。
「ところで日蔭殿、大阪へはどのような用事でまいられましたか。」
酒と膳を挟んで佐々木忠兵衛が靄四郎に尋ねた。
「あ、いや、ちょいと人を探しにきたのです。」
「何かお手伝いができることがあれば何なりと申されよ。」
「かたじけない。」
「して、うちの奉行とはどのような関係で。」
「はぁ、まぁ、私の師匠のお知り合いということでして...」
その後、酒を酌み交わしながら世間話をしていた、
何やら訝しげな表情で靄四郎を見る佐々木忠兵衛であった。
翌日から、靄四郎の探索が始まった。
大阪が初めての靄四郎にはまったく勝手が分からない。
まずは山田彦太郎同心が住み込んでいた鞘師を訪ねた。
鍛冶屋町の一画にあるこじんまりとした店構えの二階が
山田同心のねぐらであった。
店の主人である鞘師長右衛門は、背の高いほっそりとした老人であった。
靄四郎は長右衛門の身のこなしから元は武家のものと見抜いた。
長右衛門の話しによると、山田彦太郎はひと月ほど前に忽然と消えてしまった
ということであった。
二階の部屋へ案内されたが身の回りのものなどはそのままであった。
どうして姿を消したのか長右衛門にも分からない風であった。
長右衛門は靄四郎の質問には丁寧に答えるが決して余計な詮索はしなかった。
鞘師長右衛門方で手がかりが得られなかった靄四郎は
神社仏閣の参詣を装って市中を歩き回ることになった。
夜になると遊所へと足を運び下世話な情報を集めた。
しかし、山田彦太郎同心の足取りはようとして知れなかった。
そして、その靄四郎を密かにつけている武士がいた。
ここは香具師の元締め破魔崎の伝蔵が住まう奥座敷。
ここの主人の伝蔵は表向きは香具師仲間の顔役であるが、
ひとたび裏へまわれば強盗、殺人を取り仕切っている暗黒街の大親分である。
「佐々木さん、これは当座の小遣いだ。とっといておくんなさい。」
「うむ、いつもすまないな。」
そう言って男は切餅一つをふところ深く仕舞い込んだ。
「とんでもないことですよ。
佐々木さんからの情報がどんなに役立っていることやら。
今回もこいつはどうも気になる話ですねぇ。」
「するってえと、お頭の役に立てそうかね。」
「ええ、どうもその日陰って野郎は臭いですね。
まさに、江戸の町奉行所の密偵に違いねえ。
佐々木さん、どうかこれからも様子を知らせておくんなさい。
さあさあ、熱いのが来た。ぐいっと飲ってくだせえ。」
「おお、これはすまんな。」
伝蔵のすすめる酌を受けて笑み崩れているのは、
大阪町奉行所与力の佐々木忠兵衛その人であった。
Uに続く...