主要人物: 初代校長 ワルター・グロピウス (Walter Gropius) 講師陣: リオネル・フィニンガー (Lyonel Feininger) ヨハネス・イッテン (Johannes Itten) ワシリー・カンデンスキー (Vassily Kandinsky) パウル・クレー (Paul Klee) オスカー・シュレンマー (Oskar Schlemmer) ラスロ・モホリ=ナジ (Laszlo Moholy-Nagy) 設立: 1919年、ワルター・グロビウス、ワイマール美術学校と工芸学校を合併した新しいスタイルの学校、国立バウハウス創立。 BAUHAUSとはドイツ語で”家を建てる”という意味です。 その名のとおり、建築が中心の学校でした。 講師陣には錚々たるメンバーの画家が招かれました。(上記参照) バウハウスの在る意味: グロビウスは、建築を軸に芸術を創る学校を目指し、システム化したプログラムをつくります。 特に彼がこだわったのが、面、空間、色彩、材質感、量感、すなわち”形態”を身につける基礎訓練でした。
新風の到来。 芸術界にバウハウスが革命を起こしたことは言うまでもないでしょう! |
<予備知識として> 芸術と産業の結合: ヨーロッパでは、19世紀半ば以降、従来の”デザイン=工芸”という概念は薄れつつありました。 20世紀に入り、”芸術と産業の複合”という画期的な動きがたかまってきて、産業デザインも芸術の仲間入り、というわけです。 美術史的にはこの流れは当たり前のように思えるのですが、この、レヴォリューションとも言える動きは、時代背景、ヨーロッパの”伝統を重んじる”お国柄からかんがえても、はじめからすんなりとヨーロッパの全デザイナーに受け入れられたわけではない、ということは容易に考えられます。 ドイツを中心にこの動きが高まるわけですがが、なぜドイツだったのか? ヘルマン・ムテージウス(1861-1927)は当時、ドイツ大使としてロンドンに駐在していました。 デザイン革命真っ最中のイギリスのデザイン界を目の当たりにした彼は、帰国後、自国の生活工芸品(消耗品)デザインへの意識の遅れを指摘しました。 ドイツのデザイナーたちに、デザイン=工芸と考えず、デザイン=”工業(インダストリー)”と考えることを推したことが、のちのヨーロッパ全体の芸術にどれほどの影響をあたえることになるか、彼は想像できたでしょうか。 MOTIVATION: 20世紀に入って間もなくドレスデンで開かれた工芸展覧会の翌年、建築家や工芸家、そして多数の企業で、『ドイツ工作連盟(DWB)』がつくられます。 芸術と産業のみならず、”あらゆる領域の代表者を集めて、ひとつの糾合点をつくる”という意味でムテージウスが結成した連盟です。 IDEA: 機械生産を肯定しつつ、日常生活用品から建築にいたるまで、あらゆる”生産品”のデザインおよび質の向上をはかる、というものでした。 対立: 『DWB』のメンバーは多人数(かつ多様)であったため、意見の対立があったのは当然のことです。 ムテージウス側が”連盟の活動領域のすべてにおいて生産品の標準化の方向をとる”意向に対し、一方のリーダーであったベルデの考えは、”連盟のメンバーとしているかぎり、一定の型や基準を押しつけるような原理に従うことはできない”といったものでした。 結局、連盟の動きは、”生産品を規格化”する前者のムージテウス側の意見する方向へ進んでいきます。 (民主主義主流の現代では、間違いなく後者、ベルデの理念が採用されるでしょう。 しかし当時はまだ保守的なドイツの革命時期。 個性を主張したベルデ側の考えは却下されてしまいました。) モダン・アートとインダストリアル・デザイン: 立体主義にはじまる近代美術の動きは、1920年代には、ヴィジュアル・デザイン、インダストリアル・デザインの分野にも影響をあたえることになります。 同時期、アート界にはモダンアートが台頭。 デザイン界にもその色をみることができます。 ポスター、家具(テーブル、ランプ、等)、建築、等。 |