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〒710-0046 倉敷市中央1-3-13 Tel.Fax(086)422-1542 公益財団法人 倉敷考古館

と同時に、この古墳に近接した同一山丘上には、かつて古墳時代の黎明期、吉備勢力の中核ともなった、楯築や女男岩(みょうといわ)遺跡があった。山丘東側眼下に足守川が流れ、その流れが南側に広い肥沃な水田を造りだし、その、吉備の児島北岸の瀬戸内海海路に通じ、水路を形成したといえる。(この辺りの事は「よもやまばなし」の123124125126に少々ドラマチック?に集中して記述・・・参考にどうぞ)これは各時代を通じ、大変注目される地域だったことを示している。

ところで、岡山県下では、丁寧に石材を加工して形を作った石棺とか、類似の物と言えば、25例ばかりに過ぎない。この中で、現代風に言えば地産品である浪形石製は、僅かに5例だった。実を言えばこの王墓山一帯の遺跡調査に参加した事で、地産品以外の石棺石材は何処産なのか、それまで誰も注目してなかった事に気付いたのである。ここから私たちの、石棺石材のルーツ探しが始まったのだった。

石棺石材に興味のある方は、主に『倉敷考古館研究集報』9101112号、(197451119751119768月)を参照されたいが、今では考古館に余部などなく、またかなりな大学や岡山県内の公立図書館などには寄付したが、こうした雑誌として扱われる書物が、どれだけ保存されているかどうか。

それはともあれ、近畿一帯で大王墓ともいえる、古墳時代中期、主に5世紀代の大前方後円墳の主の棺、長持形石棺には、竜山石が使われていた。岡山県でも唯一の、典型的長持形石棺としては、朱千駄古墳(赤磐市山陽町で今も水をたたえる周壕をめぐらす大前方後円墳・両宮山古墳と一連の古墳)出土の棺も竜山石だった。

その一方で吉備最大の前方後円墳であり、近畿地方で、現在は天皇陵や、その参考地に指定され、立ち入る事も許されない多くの大古墳も含め、全国第4位の規模を示す造山古墳、それと一連の千足古墳などでは九州産石材の石棺や石障があった。(造山古墳・千足古墳については「よもやまばなし」23122参照)

ところが後期古墳時代(主に6−7世紀)になって、家形石棺を用いるようになると、岡山県下では、地産品の浪形石製品は5例だったのに対し、竜山石製は10例もあった。しかしそれらは古墳時代後期でも、少し新しくなっての頃のようだった。

5例の浪形石石棺は、大和の石舞台にも匹敵するかとも言われる、岡山県最大の後期古墳、総社市こうもり塚古墳の家形石棺。旭川の東岸にある牟佐大塚古墳の家形石棺も浪形石製であった。ともに岡山県下に限らず、屈指と言える後期古墳である。それに王墓山古墳の石棺。他の一つは、こうもり塚に近接する古墳、いま一つは総社平野北西端の古墳であるが、共にその地域としては大きな古墳である。

こうした状況を見ると、古墳時代も後半となると、吉備地方では、地産石材を地域豪族が自己の力で開発して、自己の石棺も製作することで、その勢力を誇示したともいえる状況であったといえる。

ところが一方で、こうした勢力の瀬戸内海への出口ともいえる、児島の東端近くで、海上を見渡す位置に、八幡大塚が築造されていた。この古墳についても、すでにこの158)話「消えた児島の古墳」でかなり詳しく取り上げたので、それを参照されたい。

まったく無盗掘の状況で発見されたこの八幡大塚では、多量の副葬品、金製の垂飾付耳飾りなど優れた遺物や、真っ赤に塗られた石棺や石室がそのままであったが、残念ながら工事で完全に消滅したこと、この古墳の石棺が竜山石製であったこと、この古墳の示した意味や重要さも、すでに158話で記したことである。

現在この棺だけは岡山県立博物館の、入り口外に置かれ、まだ赤い姿は薄れながらも失われていない。出土遺物などから見ても、王墓山古墳などと同時代頃である。

古墳時代の終わり頃には、吉備の児島には、中央政権の直轄地の『みやけ=屯倉』が置かれたようだ。そこの管理は中央政権直結だったともいえるだろう。・・・数百年の間、吉備地方が培った瀬戸内航路での制海権、しかしその力を鼻先で抑える者の出現。これを物語ったのは、波形石と竜山石の違いである。

古墳時代も大きな変動期を経てきた、6世紀代も中頃以後、王墓山の主と、八幡の大塚の主は、どのような関わりを持ったのだろうか?半日もあれば往復できるくらいの水上交通の距離にあった二人の人物。表立った争いはなくとも、緊張関係はあったのでは?・・・顔を合わせたことはあったのか?・・・・・考古学の資料からだけで、この先を書くことは、ご法度??・・・

(上)浪形石製の王墓山古墳の組合せ家形石棺
(中)上の石棺の底石、短側石を立てる臍穴加工がある、精巧な作り。
(下)こうもり塚石室内部。石棺は浪形石。横にたつ人の大きさから,石室がいかに大きいかが分る。
(上)竜山石製の八幡大塚の組合せ家形石棺。今はやや薄れながらも、全面に赤色顔料が残る。(岡山県立博物館蔵、館入り口屋外にあり)
(中)ばらされた石棺、遺跡地において。底石の加工には、臍穴はなかった。
(下)今は無い八幡大塚石室内、左右別写真を合わせて作成。石室内も全面赤色だった。

(180)浪形石と竜山石

先回の話題「石宝殿」は、今年ここが国指定史跡になったことに関係して、話題としたものだった。それは、古墳時代にこの石切り場が開発され、以来こ々竜山の石材で製作した石棺が、近畿地方や山陽道の各地に運ばれ、端的にいえば、その石棺を使用することは、大和勢力の象徴ということでもある、というような話である。

それでは具体的に、この倉敷市近郷にもそのような石棺があるのかどうか・・・それが何を示しているか・・・・、この「よもやまばなし」でも幾度か、石棺石材については、話題にもしてはきたが、今一度最も身近な辺りで、古墳時代の石棺石材の実体が、当時の社会情勢といかに関わるのか、一端にでも触れておきたい。

少々堅苦しい話となったが、この「よもやまばなし」でも既に古くなった200711月の11)話で、ある刑事さんの話を取り上げた。今回はぜひそちらをクリックして頂きたいのは、これから話題とする王墓山古墳の石棺や、浪形石のことを、11)話でも取り上げているからである。石材などの説明はその(11)話に譲る。

かつては王墓山と呼ばれていた一帯の低丘陵は、現在は倉敷市庄新町となって落着いた住宅街となっているが、この低丘陵地で多くの古墳が古くから知られていた。今も住宅地内には、さまざまな努力によって、かなりの古墳が残されている。地名の由来ともなった王墓山古墳も、その一つである。

この王墓山古墳や出土の浪形石製石棺などについては(11)話の通りだが、この古墳は1世紀以上も昔、石室の上部大半が、石材採掘で破壊され、墳丘形態も定かでない。ただ石材採掘の事実から、石室は大きく、立派な石材を使用していたことであろう。近年の調査で、古墳時代後期でも6世紀後半頃の、巨大な横穴石室墳の下半が残存していることが判明した。

王墓山古墳の出土品は、須恵器、馬具、よろい・かぶとや武器・工具など多くの優れた品々だった。その他に、この頃は古墳へ鏡を副葬する例が少なくなる時代だが、王墓山古墳では、中国舶載鏡の中では我が国での出土例が珍しい、仏像を鋳だした四仏四獣鏡を出土している。これらの遺物は明治421909)年、東京国立博物館に収蔵されている。

現地に残るのは組合せの家形石棺のみではあるが、その石材が、井原市産の浪形石だったことは以前述べた。この古墳が倉敷市内で6世紀後半頃の後期古墳としては、最も注目される大きな古墳といえるだろう。