茶屋「みつや」の二階では暁闇の中、
お雪が苦しそうな寝息をたてている。
ややはだけた胸肌は、じっとりと汗ばみ呼吸で軽く上下している。
(ああ、佐助...佐助っ...)
お雪は自分の声に驚き目が覚めた。
(私としたことが...)
お雪は恥じた。
忍者としてたとえ寝ている時でも、何者かに襲われることに備えて熟睡などしてはならない。
まして我を忘れて、夢の中で叫び声をあげてしまうなどということは言語道断である。
階下で眠っている茶店の主人にはどうやら聞こえなかったらしい。
もっとも実際には、お雪は声など出してはいなかったのである。
そんなことも分からないぐらいにお雪は動転していた。
(何故にこれほどまでに佐助に心を奪われるのか...)
お雪にも意外であった。
夢の中の佐助は力強くお雪を抱きしめ口を吸った。
逞しい両腕に、お雪の背中と腰が捲き絞められた時思わず、
叫んでしまったのである。
まだ興奮は収まらず、乳房から腰にかけて汗が一滴流れ落ちていった。
(まだ夜明けまでは間がある。もう少し寝ておかなければならない。)
そう思うと忍者特有の整息の術を使い、気を静めると再び眠りに落ちていった。
門前町の一角に数軒の遊所があり、
昼間から近くの破戒僧が足繁く通い賑わっている。
町医者の風体をした堀本堂悦が、てらてらした頭をなでながら遊所の一郭へ入っていった。
堀本堂悦は、今で言う整体師と按摩を兼ねたような治療をする。
時には針も使うが、己の手指だけで重病の患者を揉みほぐすことで治してしまう。
人間の体にもともと備わっている治癒力を、体の壷を刺激することで最大限に引き出すのである。
(さて、今日はどんな女かな。わしのこの手指にかかればどんな女も、うふふふ...)
二階座敷に通され酒をちびちびやりながら待っていると、新顔という若い女が入ってきた。
見るからにやつれて患っているように思われた。
(ちぇっ、こんな女抱けねえぜ。)
しばらく世間話しをしているうちに女が身の上話を始めた。
女は”おみよ”といい、螺鈿堂の一人娘であった。
螺鈿堂と言えば、因幡屋こと蛇骨の長兵衛に騙されて身代を奪われた
江戸随一の飾り細工の老舗である。
主人夫婦は大川で入水自殺をしてしまい、娘のおみよは女郎屋に売られたのであった
「おみよちゃん、随分とひどい目にあったねぇ」
堂悦はおみよを優しく横たえると、自慢の手指でおみよの体を揉みほぐしはじめた。
いつしかおみよは、一筋の涙を流しながら静かな寝息をたてていた。
それは、生きることの辛さを忘れたかのような安らかな寝顔であった。
宵の月がゆっくりと流れる薄雲に隠され
どこからか野良犬らしき遠吠えが辺りに響く
「旦那様、大変お待たせ致しました。」
と、しっとりと落ち着いた声がし、襖がスッと開けられた。
「おお,待ちくたびれたぞ」と謂いつつ
下女がようやく持ってきた酒に手を伸ばし
「先生,今宵は筑後の地酒をご用意致しましたぞ。
たんと飲んでやってください。肴もほれ,この通り」と、ところ狭しと
並べられた贅を尽くした料理を前に酒を勧める長兵衛。
「うむ、さすがに因幡屋どの。いかな大名とて毎夜これだけの馳走は
出来ますまい。愉快,愉快うはっはっはっ・・・」
前から飲んでいる酒もほど良くまわりかけ上機嫌で応答する用心棒の剣客,名和文五郎。
が、しかし一献ゴクリと飲み下した直後、舌先に尋常ならない痺れを感じた。
「うっ」と低く唸ると傍に控えていた下女をギッと見据えた。
長兵衛もどうも様子がおかしいのに気付き
そちらに目をやると姿勢を低くして傅く女が
ゆっくり上げた面を見て、ぎょっと驚いた。
「おまえはこの屋敷の下女ではないな・・・」
「はい,左様で・・・」
「今宵は,貴方様を地獄の獄卒の待つ黄泉への旅路に
御招待申し上げようとまかり参上致しました。」
「なんと、なんと・・・おまえは一体何者っ、」と,長兵衛が声を荒らだてれば
部屋全体に張り詰める極度の緊張感。
「わたしは女忍びお雪、真面目に生きている善良な人たちの
生き血を吸うような輩は断じてこのわたしが許すまいぞ」
「な、なにを小癪な・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
わなわなと怒りに体を震わせながら、ふと隣りに控える七蔵に視線を移せば
すでに時遅し、全身黒尽くめのやたらと体格の良い男に両手を捻じ取られ
畳にうつ伏せに押さえつけられている。口には布が押し込まれ
あの独特な眼だけがなおさら大きく見開かれ、なにやら訴えかけている。
「さっ,覚悟おし」
お雪がそう叫び、クナイを長兵衛の心臓目掛けて
投げつけようとした瞬間,あっという間に右手を払われ
ゾクリ、、、首筋に金属特有の冷たさが走る。
「さて,そうは問屋が卸すかな・・・」
不敵な笑い声を響かせ,お雪の顎を片手でぐいっと掴み
上から見下ろしているその顔に向ける。
痺れ薬が効いていたかに見えた男にいつのまにか取り押さえられ
「人殺し家業が身に染み付いてくると用心深くなり口に付けただけで
毒は分かるようになった...」と告げる。
一瞬、お雪の表情が凍る
そんな緊迫した空気を覆すように
「おまえ・・・、ひょっとしたら文五郎じゃないのか?」
吹矢の七蔵を押さえつけている男がひょんな声を上げる。
「げっ、なんで仁之助、おぬしがこんなところにいるんだっ!」
「おまえこそ、いつからこんな悪事を働く奴に肩入れするようになった。。。」
「・・・・・・・・・・まあいろいろあってな。」
「けっ,おぬしこそ、偽善者ぶって女と忍者ごっこか。」
と皮肉を元同じ門下の剣術使いに投げつける。
そんなやり取りに一瞬気が弛んだチャンスをうまく利用できないようじゃ
忍者なぞやって居れまい。
雪は気配を消して,その場所から長兵衛のうしろにスッと回り込めば、
相手とて名が知れた元盗賊の頭領。このままでは済むはずがない。
目にも留まらぬ速さで、雪の左肩を爪の尖った手で肉まで
食い込むような力で鷲づかみにした。
「うっ・・・」
きっと血が滲んでいるに違いない。
痛みのさる事ながら胸の底から激しい嘔吐感が衝き上げてくる。
「この爪には薬が仕込んであるきのう・・・」
無気味な笑いを周囲にこだましながら
今度は声色を変えて
「おい,そこの忍,今すぐそいつの体を解放しろ!」
仁之助に向かって激しく怒鳴りつけた。
「・・・・・・・・・・・・・・」
お雪は肩に深手を負い、仁之助は雪を人質を取られ同じく手出しが出来ない。
・・・・・もはや八方塞だ。
そのとき、凄い爆音と共に目の前が真っ白な霧に視界を塞がれた。
「お雪」
そう。この声は一時も忘れた事はない愛しい人のもの
「佐助・・・」
ここは例のエロ整体師・・・もとい
整体と按摩を兼ねた医術を施す堀本堂悦の診療室
町医者が見離した病気でも堂悦の手指にかかると持ち直してしまう
凄腕の持ち主なので本来なら堂々たる医者として世にでるところであったが、
あいにく酒と女が大好きで身を持ち崩してしまっている。
しかしながら、なかなかの好人物で貧乏人からは僅かな治療代しか貰わないが、
大店の主からはときに五十両もの金をふっかけることもある見上げた肝の持ち主でもある。
「お雪,大丈夫か?」
心配そうに病人の顔を覗きこむ仁之助
危ないところを佐助に助けられ
もともと馴染みのこの医者の元に担ぎこみ,
その腕前を持って南蛮渡来の毒薬に痛めつけられた
お雪の命をなんとか揉み療治でこの世に繋ぎとめはしたものの
なかなか意識が戻らない。
「そう心配するなや。まーちっとしたら気がつくきに。」
体が大きく、つるつるに剃りあげている頭をグルグルと撫で回しながら
笑うと片頬に小さな笑くぼができる顔には一種の愛嬌がある。
「うっ・・う〜ん」
「ほら,気がつきなすったわ」
ところでおまえんら,どうも危ないことを企んどるようじゃのう。
と謂う、気心知れた腐れ縁の連れをいつまでも誤魔化せそうもないと
観念したのか仁之助,事の起こりをとつとつと説明しだした。
しばらく大人しく話を聞いていた堂悦だが内容が螺鈿堂の一人娘
に及ぶと顔の色が見る見る変わった。
怒髪天つく勢いとはこのことだ。(ハゲだけど)
ここにきてなんとか押さえていた怒りが爆発したようだ。
「た、たのむ。」
先ほどから胡座をかきながら聞き入っていた姿勢を
ぴしっと改め、仁之助の方に向き直ると堂悦は畳に額を押し付けて
「たのむ、頼むからおみよに仇をとらせてやっちゃくんねえか・・・」
その丸まった広い背中はほとばしる怒りにガクガクと震えている。
「よし,その願い確かにこのお雪が聞き入れたよ」
さっきまで死に掛かってた奴が微笑みながら親指を正面に衝きたてた。
さきほどからその会話の終始をひそかに聞いていた人影が
「おみよか・・・」
ふっ、と小さくため息を落すと人込みの中に飄々とに紛れて行った。
今日は金銭貸付業者同士が月に一度集って開かれる寄り合いの帰り道
「因幡屋」の主人,長兵衛と番頭の七蔵が堀川に面した沿道を
「いや,まったくあいつらの驚いた顔ったらありゃしなかったですな,御頭。」
「ひっひっひ、まさか尾張屋と三河屋の二人をわし達が片付けたとも知らずに
次は自分たちの番かとビクビクしておったわ。」
と御機嫌で話ながら歩く後ろを少し離れて用心棒。
春風に満開に花をつけている桜が花弁を散らす。
いよいよ機は熟せり。
大きな桜の木の下を文五郎が通りかかった瞬間、
頭上から大きな縄が降ってきたかと思うと
あっというまに足を掬われ木に宙吊りにされた。
何事だッ!と目を剥いて慌てる二人が現状を把握できるまえに
お雪と仁之助はいっせいに火クナイを投げつける。
火クナイ・・・形状は普通のクナイとは変わらないものの
その身に食い込んだ後、焼きつくような激しい痛みを生じ、
一時的なショック状態を起こすよう細工されている。
見事,それは二人の腕や肩に突き刺さり、
二人は虎に睨まれたネコのように身動きが出来なくなっている。
木からスッと飛び降りるとさらにこの二人を取り押さえ
暗闇に向かって声をかける。
「さあ、いまだ。おみよちゃん!」
木の陰に隠れ白装束に身を固めたおみよが胸元に
短刀を握り締め長兵衛めがけて駆け寄るほんの数秒の隙を衝いて
七蔵が襟元に隠しもっていた毒矢を口で抜き取り
おみよ目掛けて「ぷっ、」とひと吹きした。
そのようすを一呼吸遅れて気付いたお雪と仁之助は
「あっ」と息を呑んだ。
*その瞬間、毒矢の前に飛び出した影が
陽の光をさえぎったのと同時に
おみよは短刀に、はっきりとした手ごたえを感じた。
「。。。。うぐっ」
正面からの毒矢と背後からの短刀、その両方を同時に受けた
名和文五郎は、崩れるように片ひざをついた。
「お・おめえ・さん、ひとりじゃ、と・ても、
ヤツは、討ち果・・たせねえ、助太刀いた、そう。。。」
と、立ち上がりながら因幡屋へと険しい目を向けた文五郎の、
背中からあふれるおびただしい血をみた仁之助は、
「(あの出血では、もう助かるまい。)」と感じた。
「おい、因幡屋、依頼、通り・・い、一度は命を、助けたぜ、
これ・・で俺、の受けた、仕事は・・・終わりだ、な。」
「な、な、、な」
動転する因幡屋は、文五郎の目の光にすくみあがった。
「参る。」ツイと身を沈めた文五郎の剣先が因幡屋を襲う。
「柳生新陰流・涎梳(よだれすかし)ッ!」
一度は捨てたはずの新陰流の白刃が、
動脈のはしる右腋の下を深々と切り裂いた。
名和、いや柳生文五郎はよろめきながら因幡屋から離れ
「おみよ・・今じゃ、存分・・」といい終えず、どっと崩れ落ちた。
「文五のおっちゃ〜ん、おっちゃ〜〜ん。な・・ん、でこんなこ・・・」
すぐさま駆け付けたお雪が文五郎を泣きくずれながら抱きかかえ
声にならない言葉で問い詰めれば
「おみよ・・・同じおみよという名を聞いちゃあ・・うっ、黙ってなんかおれねえよ・・・」
「わ、わかったよ、おっちゃん。もうなにも謂わないで・・・」
その言葉にうなずくように、文五郎の頭がガクッと垂れた。
「文五のおっちゃん。。。」
雪の白い頬を伝った涙がひとしずく、文五郎の腕に残る狼の噛み傷におちた。
一方、文五郎の一太刀であわてふためき、
腋からあふれ出る血を必死に押さえている長兵衛の懐に
おみよは一気に飛び込んだ。
「父上、母上の仇ッ!」
目の前を涙が滝の様に溢れた。
そんなおみよを仁之助が抱きかかえると
後方に大きく飛びずさった。
雪はスクッと立ちあがると残る二人目掛けて
力いっぱい起爆筒を投げつけた。
これで全て一巻の終わりだった。
因幡屋が座布団の中に板で挟んで隠してあった証文もすべて燃やした。
旦那と番頭をなくした因幡屋はすでに風前の灯である。
仁之介の妾おときが経営する料亭の離れ座敷に
お雪、おみよ、仁之介、堀本堂悦の顔ぶれが居並んでいる。
「よくおやりなすった、おみよさん」
まだ興奮がさめないでいる、おみよに仁之介が声をかけた。
堀本堂悦は好きな酒を立て続けに呷り、てかてかした頭をしきりに撫でている。
仁之介は改まった口調で
「ところで、おみよさん、これから先どうされるね。」
「もしお前さんが良ければ俺が店に話しをつけて自由にしてやろう。」
「そして、お前さんにその気があるなら螺鈿堂を再建する手伝いをしたやりてえのだが...」
おみよはちょっと俯いていたが、決意とともにこう切り出した。
「私はもう商いというものがつくづく嫌になりました。できることなら、
先生のお世話をさせていただきとうございます。」
「こいつはいいや。堂悦先生どうするんだい?」とお雪。
「どうも...こうも...」といいつつ口をぱくぱくさせる堂悦。
おみよはまるで睨むように堂悦を見つめる。
「先生もう女遊びは終わりだぜ」と仁之介が言えば、
「うむ、よろしく。」
と堂悦はてかてかの頭をちょこんと下げて見せた。
「よし、決まった。さあ、飲み直しだよ。」とお雪の声も明るく弾む。
そのとき、襖の向こうからおときが来客を告げる声が聞こえた。
玄蔵がお雪を訪ねて来たのであった。
お雪が出迎えて「玄蔵、ちょうどよいところへ来た。
さあ、お入り、これからお祝いだよ。」と声をかけたが、
玄蔵は浮かない顔で答えた。
「お雪お嬢様、頭領様がご危篤でございます。すぐに甲賀の里へお帰り願います。」
「え、なんだって...そ、そんな...」
お雪は突然のことに声を失ってしまった。
<4>へ
ちょっと強制的でしたでしょうか。修正,変更,付け足し大歓迎。
是非,お知らせください♪
★Takaさん,さすがです。いぶし銀です。
#名和さん、修正ありがとうございました。もう少しで笑い死にするところでした。
無知っておそろしい・・・(爆)
今後とも宜しゅうに♪