田中博物館は,昭和12年(1937)10月,萩中学校の博物学教師 田中市郎が長年にわたって収集した標本を同好の士の参考に供するため,独力で開館した私立の博物館です。
これより先,萩中学校校医として田中と親しかった山本勉也氏は,退職によって田中の研究が頓挫することを惜しみ,萩中学校長河内才三に諮り,昭和9年(1934)11月「田中市郎氏研究後援会」を作り,会費を田中に贈呈し,その研究費の一部に充てました。
田中は毎日早朝から日課のようにして,浜崎の魚市場に通い,珍奇な海産生物の発見に努めたので,友人の市川一郎市長は,昭和11年(1936)4月から萩市魚市場の無給嘱託として,その資料収集に便宜を与えました。
こうして田中の研究は戦時下でも孜々として続けられたので,萩市教育会では収集資料の保管を兼ねて科学館の設立を決定し,昭和20年(1945)10月30日に開催の市議会でもそれに対しての補助金支出の議決を行いました。田中は感冒が元で病臥のみとなり,数え年70歳の老齢でもあったので,館の将来を憂慮して,当時市議会副議長であった甥の中島恒一を通じて標本全部を萩市に寄贈しました。
ここにおいて,市はその保管を科学館に委託することにしたので,教育会は熊谷町の元双葉幼稚園の土地・建物を市から借り受けて科学館を設立し,昭和21年(1946)6月17日に開館しました。その陳列がほぼ終わったことを聞いて,田中は5月30日に安心して永眠していました。その日は奇しくも20年前の大正15年(1926)に,当時摂政宮の昭和天皇に笠山の植物について御説明申し上げ,田中が生涯で最大の名誉としていた日でありました。 |