祝島おらがあれこれ あれこれ2 あれこれ3 あれこれ4 あれこれ5
昭和20年代のこと
おらが生まれたのは昭和22年(1947年)
幼児期の夏は基本的にずんずらで生活をしていたようである。
母親の親元は綿村という。そこによく遊びに行っていたようである。
うろちょろするのが好きだったようで、見あたらなくなったら、まずおらが家の井戸の中を覗くように綿村の祖母から言われていたそうだ。
保育園は照満寺で、学芸会での「さるかに合戦」の写真が残っている。
島に火力(重油)発電所があって、夕方から22時頃まで電灯がついていたようだ。
発電所の冷却水用のタンクがあって、そこに落ち込んで2回ほど溺れたことがある。
どちらも中学生に助けられたようだ。まだ泳げなかったのだ。
同級生には小学校に入学するまでに海で泳げるようになっていたものも結構居た。
寝るのは父方の祖母とだった。冬は素焼きでできている木炭用のコタツを布団の中に入れていた。炭は親父が焼いていた。
祖母は練り薬(ねりやく)を飲んでいた。缶にオットセイのマークがあったように思う。
山羊の乳を朝一合、モリユクで買って飲んでいたように思う。おらも時々貰って飲んでいた。
台風で木造の校舎が壊れ、鉄筋の校舎ができたのが昭和28年である。
台風の時、家の押入の中に入ったのをかすかに覚えている。
おらの小学校入学が29年四月。
担任の先生はかみの先生。1学年が3クラスあった。
東の波止が台風で壊れて、その崩れたところに行ってはウゴ釣りをしていた。
小学校1年の時大きなホゴを釣った。山崎のカズちゃんかシゲちゃんが一緒だった。
春から夏にかけてはイワシ網があり、親父はそれに出ていた。
親父は菊元酒造の杜氏として出稼ぎに出ていた。
昭和30年代のこと
30年代初めには、島にテレビが入ってきたと思う。タチバナにあって見せてもらいに行っていた。
水泳の山中選手や相撲の吉葉山とかをタチバナで見たように思う。
5つ年下に遊び友達のタチバナのケン坊が居たので、見る機会があったのだろう。
中学生の頃、テレビはナンバにもあった。トンマ天狗や怪傑ハリマオ、てなもんや三度笠をそこでみた。
タイトロープマンは照満時。紅白歌合戦はモリタに見に行っていたように思う。
貸本屋はイヅタで、斉藤たかおや江波譲二、川崎のぼる等の単行本があった。
手作りの竿で磯に釣りに行っていた。
磯に釣りに行く途中ナカバエで、カニを追いかけているタコが石の上に座ったのを捕まえたのが小学校2年生の時。
潜って初めてタコを捕ったのは4年生の時。その頃春から夏にかけて大潮にはよく磯に釣りに行っていた。
完全に夏になると、潜りに行っていた。キヨシ、トキ坊、モトが磯の仲間だった。
秋から冬にはユウちゃんのメジロ捕りにもついていっていた。
冬の人家での遊びはケッチョウとかブッツケが多かった。
小学校の担任の先生は2年ハヤシ先生〜マガタ先生、3年ナイトウ先生、4年イシマル先生、
5年タナカ先生、6年タナカ先生〜ヤマモト先生である。
中学校は1年タカスギ先生、2年ハマモト先生、3年フクダ先生。
中学1年の時、給食が始まった。月・水・金曜日だったように思う。
おらが家には北野に8畝の田んぼがあって稲を作っていた。牛はイトウで借りていたそうだ。
畑はタカトオに少しあって、ムギや芋を作っていた。
ソウズイにはビワの木と梅の木があって、5月から6月にかけて収穫して、負い子で負うて海辺まで下ろしていた。
ミョウデンの船が仲買に来ていた。
親父は炭焼きもしていた。親父は30年代後半に、春〜秋にかけては漁師になった。冬はずっと酒造りの出稼ぎに出ていた。親父は何種類もの職をこなし、家族8人を養っていたわけだ。
高校は熊毛南高校。田布施の竹部の四反田さんに下宿。下宿のおばさんにはかわいがられた。下宿のユキちゃんにもいろいろなことを教えて貰った。ユキちゃんは猟や釣りが好きだった。冬にはウサギ、キジ、ヤマドリ等の肉がおかずに出た。おばさんは料理が上手だった。
田布施川ではよく釣りをした。ハヤがよく釣れた。持って帰るとおばさんがよく天ぷらにしてくれた。フナも時々天ぷらで食べた。ウナギも釣れたり、獲れたりしていた。
四反田にギターがあり、ギターの音色が好きで弾き始めた。一番最初に楽譜を見ながら練習をしたのが古賀政男の「湯の町エレジー」だった。何とか弾けるようになったと自分で思い、レコードを買って聴いてみると、大分違っていた。
おらが初めて買ったレコードもこの「湯の町エレジー」である。
柳井の映画館にも自転車でよく行った。「座頭市」シリーズが好きだった。帰りにバナナを一本買って、食べながら自転車を漕いで帰れる日は幸せな気分だった。
大和の塩田に友達の青木君というのがいて、そこに岩田のヤマモト君と、ヤマモト君のバイクで松茸をとりに行った。2本見つけた。おらが最初で多分最後の松茸採りだ。帰りは雨模様だった。ヤマモト君は何をしているだろうか。無免許のおらによくバイクを貸してくれていた。
平生のイワモト君は、おらに1500円でスズキのバイク「コレダ」を売ってくれた。
田布施での高校時代の放課後に費やした時間で長いのは、ギター弾きと田布施川の釣りだろう。
この頃、下関のいとこの万ちゃんが夏休みに祝島によく帰ってきて、磯に行く。下関にもよく行って、刺身を沢山ご馳走になった。おじさんは下関中央市場の次長さんとか言っていた。
テレビは「青春とはなんだ」というのがあったと思う。「これが青春だ」だったかも知れない。「歌のグランドショー」というのもあった。この二つがおらにちょっと影響を与えているように思う。