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昭和40年代

 高校を卒業したのが41年春。集団就職列車に乗っていった。中学生は金の卵といわれていた終わり頃の時代だったろう。
 就職試験無しで、ダイニンコウサクショに就職した。枚岡市(今は東大阪市になっている。)にある工場でミシンの部品を作る所だった。日給月給で1万4000円くらいだったが、残業が結構あって寮費を引いても手取りが1万4000円くらいあったと思う。寮費は3食付きで3000円だった。最初の給料でオリンパスペンD2という、ハーフカメラを買った。
 次回の給料くらいで祖母に、折り畳みのビニールで出来た簡易ベッド(寝そべり台)を買って送ると大変喜んだ。祖母さん孝行はこれだけだったかも知れない。
 3ヶ月くらいたって空手道場に通った。
 5ヶ月くらいたって会社を辞めた。
 祝島に帰って、親父と漁師をした。
 11月から次の年の3月まで親父の酒造りの出稼ぎについて岩国に出稼ぎに行った。
 4月から大学に行きたいので祝島で浪人になった。受験用の参考書や問題集を柳井で買った。「蛍雪時代」というのを買ってどんな大学があるのかも調べた。祝島で、教員をやって行けたらいいと、教員養成課程というのを選ぶことにした。
 一足先に大学生になっていたトキ坊が、読んでみんかと本を二冊持ってきてくれた。そのうちの1冊が北杜夫の「白きたおやかな峰」だった。小説は面白いと思った。
 秋に初めて模擬試験を広島で受けた。トキ坊の下宿に泊めて貰って受けた。
 四国の徳島の大学に行くことになった。
 ヨットに興味があったのでヨット部に行ってみたが、金がかかりそうなので止めて、パンツ一枚でできる水泳部に、水泳パンツを1枚買って入部した。
 先輩に大村さん、井上さん、三宅さん、木村さん、石川さん、吉川さん、国司さんなどいた。同期生に藤川君、西野君なと゜がいた。藤川君は大変早かった。夏休みに水泳部で高知県の甲の浦に泳ぎにいってタコを捕った写真がある。
 秋から冬は水泳部は暇になるので、なるべく本を読むことにした。
 下宿は農家の納屋を改造したところで、家賃が6畳1部屋2300円だった。部屋へは梯子段で上がるようになっていた。これは格別安い方だった。4年間そこで暮らした。銭湯はたしか80円だったように思う。流木を拾って自転車で運んできて、簡単なタンスや本立てを作った。部屋の中でかんながけなどをして、大家のおじいさんに苦笑された。大目にみてくれた。
 仏教の本に興味を持って、少し読んだ。良寛という人を好きになった。知り合いの谷内さんは真言宗の坊さんになった。
 3年の秋にツェルトザック、寝袋、飯ごうを背負って、19泊20日で、下関まで歩いた。いろいろなことに出会った。大分の日出町では秋祭りの日だった。
 冬の間、ギター部に入った。水泳が始まって間もなく止めた。
 4年の夏に大阪の教員試験を受けた。
 卒業の時期に1年の時の単位を取ってなかったので卒業が出来そうもなかったが、岩崎先生が、「お前は大学に残っていてもしょうがないから」と再試験を受けられるようにしてくれて、卒業式の直前に卒業が決まった。
 四月に、大阪の採用試験の結果が来ないので、大阪に行ってみると、「落ちた人には連絡が行っていません」ということで落ちたことがわかった。そこで、祝島に帰ってまた親父の手伝いで漁師をした。
 11月に親父は酒造りの出稼ぎに行き、おらは徳島の鳴門に行ってアルバイトをした。1日に1冊本を読もうと思って、読んだが、100日で97冊だった。ドストエフスキー全集をあまりわからないまま、ほとんど読んだ。(勿論日本語)
毎月1回は泳ごうと決めていたので、2月のみぞれの中、鳴門海峡の近くの浜で泳いだこともあった。坂口安吾の水風呂の話を読んで、思い立った出来事である。
 昭和48年の四月に水泳部のまわりをうろうろしていると、大学の先生が、高校の臨時教員の世話をしてくれた。城東高校という高校で物理の授業を週に16時間と、水泳部の副顧問を受け持った。7月まで物理を夜なべで勉強したり、水泳部の生徒と冗談が通じたり、なかなか幸せな期間だった。
 7月から千代小に臨時教員で勤めた。なめられながら、ここでも楽しい期間を過ごした。結局千代小に1年と2学期間いた。
 昭和49年も小松島市の高須荘というアパートで暮らした。千代小を卒業した中学1年生が、よく遊びに来た。
 小松島の海岸の磯で、よくさぐり釣りをした。アブラメ(クジメ)がよく釣れた。