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昭和50年代
昭和50年は那賀高校平谷分校というところに勤務した。1年間の講師で、大幅に収入が増えた。職員官舎があって昼食は取り寄せて、朝、夕食は基本的に自炊だった。このときは、生物、農業機械、測量、土肥料、女子の体育と5教科も教えることになった。今思えば冷や汗ものだがなかなか良い思い出が多い。特に五郎君との付き合いは濃くて、剣道部で剣道を教えてもらった。手のひらや足の裏に二重にマメが出来たりした。出羽(イズリハ)というところから来ていた福浦君達の所にいってワラビやゼンマイ、ウドを初めて採った。
昭和51年4月に平谷分校の送別会に行って、トイレで小便をしていてそのまま直立したまま倒れたのが印象的であった。隣でしていた高木先生が、ちゃんと出していたものを納めて前を閉めて、介抱してくれている頃目が覚めた。
昭和51年は小松島教育委員会嘱託ということになった。小松島中学校の臨時的教員で、給料は少なくなった。千代小卒業生の紹介で、新聞配達をした。1万2千円くらい副収入があった。
また高須荘に暮らした。子供達が遊びに来た。中学校では相撲部の副顧問ということで、相撲部の手伝いをした。千代小卒業生の沢原君が一人相撲部員だった。相撲部の顧問の先生は柔道部の顧問でもあり、もとレスリングの日本一になった人で、柔道部も強かった。おらも生徒の柔道の試合前の練習につき合ったりしていた。その時投げられて鎖骨が痛くて寝られないときがあった。半年後にわかったことだが、どうもヒビが入っていたようだ。
沢原君はのちに大相撲前頭四枚目まで行ったのである。
52年は千葉県の教員採用試験に受かったので、4月から千葉に行った。52年から55年3月まで香取郡の東庄中学校というところに勤めた。笹川というところに住んで、自転車で通勤した。途中からバイクを買ってそれで通勤した。初めての正規の教員勤めで、ここでも、今思えば冷や汗ものの職員生活であった。サッカー部の顧問だった。生徒達とよく走った。年賀状が続いている元生徒も数名いる。
初場所には一回国技館まで、毎年大相撲を見に行った。
55年4月から60年3月まで、白井町の大山口中勤務になった。昼休みによくサッカーをした。白井町は人口増加率全国2位ということで、開校2年目の学校だった。根本さん、武藤さんとか中鶴さんにお世話になった。根本さんと中鶴さんには今もお世話になっている。
勝田先生、村上先生、菊地先生、吉岡先生は大変仲がよくて、年が離れていたが、おらもよく誘われて飲んだり唄ったりした。このときの職員のグループは友情に満ちあふれていて、きっと今でも皆、この時を宝物にしていることだろう。分かれるときは泣けた。
大山口中の担任時代に始めたのが学級通信で、しっかりものの生徒達のおかげでなかなか充実した学級担任時代を過ごせた。
この頃に沢原君は港龍というしこ名で十両になった。NHKのラジオでの恩師紹介というコーナーで、おらに電話が掛かってきた。おらが声がNHK放送ラジオで流れた最初で最後である。ちなみに同時に十両になった力士に寺尾がいる。
58年に結婚した。祝島出身で裕子という。神戸の中央病院のICUにいたそうだが、おらはその病院は見たことがない。母がガンで入院していて、数ヶ月岩国の病院で親父達と付き添ってくれた。
59年10月に母が亡くなった。亡くなる10日前に、山口県の教員採用の二次試験を受けた帰りに病院に寄った。病室を出るとき、ベッドに正座して、見送ってくれた。死を覚悟しての見送りのような気がして、病院から駅に向かう間、涙が出た。おらが一生で一番悲しいときだったかも知れない。