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昭和60年代〜平成6年
昭和60年4月から63年3月まで山口県の田布施中学校で勤務した。高校時代を過ごした田布施ということで感慨があった。下宿のおばさんはすでになくなっていた。生きていたら喜んでくれただろうと思う。幸ちゃんと奥さんは喜んでくれた。幸ちゃんの息子さんがちょうど中学3年生で、理科を教えることになった。
中学校までよく走って通勤した。
60年に長女が生まれた。なかなか可愛い子でなめずり回した。一度風呂で溺れさせたことがあった。
62年に次女が生まれた。まるまる肥えて、いつも笑っていた。これもなめずり回した。機嫌のいい子で抱いてあやすとよく眠る子だった。
相の浦や池の浦、梶取岬などに小魚を釣りに行った。長女は魚をよく食べた。
休みには時々バイクで四代まで行き、親父の船に迎えに来てもらって祝島に帰っていた。
61年頃、五月丸(親父の船)が機械(エンジン)を据え代えた。親父は田布施までよく魚を持ってきてくれた。
62年終わり頃から祝島に帰る準備をした。歯の治療、昔の軽免許の普通免許への切り替え(受検)、4級小型船舶免許の取得等。
63年4月から祝島中学校勤務。
大叔父のタンニイさあが実質おらにくれるつもりで繁栄丸という船を貸してくれた。木造船で23〜4尺、12馬力、大漁旗付き、釣り道具付き、である。タンニイさあは、冬は杜氏、それ以外の時は漁師でずっと過ごしてきた人である。親父の叔父・祖父の弟である。昭和47年の春に、四国を古い自転車で廻ったとき、愛媛県の宇和郡にあるタンニイさあが杜氏をしている酒造会社に寄ったことがある。あの時、喜んでくれた。
定期船で出会ったときなど、米俵を前歯で持ち上げたこととか、親父とフカに出会って船をかぶりつかれたこととか、面白いちょっと昔の話とかをよくしてくれた。
ユウベエは保育園に行き始めたが、なかなかなじめないで可哀相だったとヒロコおばさんは振り返る。迎えに来るのを窓越しに待っていたそうである。
平成1年にリョウキチが生まれた。この年の秋から冬には、東の波止からスズキがよく釣れた。出勤前によく出ていた。釣れる時間は大体20分間であった。手際の良さが必要であった。裕子には釣りばかりしてと怒られながら、いそしんだ。リョウキチは喘息がひどかった。周東病院に二度ほど入院した。見舞いに行くとすごく喜んだのが印象に残っている。アトピーもひどい方だった。今は両方ともほとんど心配ない。裕子の心配は並大抵ではなかったようだ。
平成2年頃に祝島の保育園が無くなって、我が家が保育園がわりになった。親父(リョウキチ達のお祖父さん)が園長さん代わりで、子供達はカラオケなどを聴きながら育った。おらが臨時保父さんの時は、ユウベエを連れて、ナカバエなどの磯に散歩に行った。ナゴジローはまだ、まるまると太っていて、愛想のいい子だった。
平成3年頃、ユウベエとナゴジローを連れて学校の上に花見にいった。この年に台風がその桜の木を傷めて、そこでの花見はそれが最後になった。写真は残っている。
平成4年4月、ユウベエ祝島小学校入学。
8月神舞が復活。漕ぎ手で櫂伝馬に乗る。久しぶりに浜本の新太郎かたの前の道で同窓会をする。20人位集まった。
平成5年嶋ちゃんや部坂夫妻来島。よくビールを飲んだ。
平成6年4月、ナゴジロー祝島小学校入学。ナゴジローは髪の毛が真っ直ぐで、ふさふさしていた。